伏屋素狄の史跡を歩く
- 2019/08/19
- 19:41
中野操文庫の調査が一通り終わって、大阪市立中央図書館を出た後、今井先生がすぐ近くにある伏屋素狄(1748~1812)の顕彰碑へ案内してくださった。
私は蘭医にはまるで暗い為、最近まで名前くらいしか知らなかった医家なのだが、漢方医から蘭方医に転向して人体を含む各種解剖を盛んに行った人で、特に墨汁を腎臓に注入して、濾過および尿の生成機能を疑似的に観察したことで名高い。
日本実験生理学の祖である事を称え、図書館の東方にある浄土宗和光寺内に顕彰碑が建てられたのは昭和42年のこと。
実は、大阪市内を南北に走る幹線道路“あみだ池筋”の名称の由来となっているあみだ池は同寺の境内にあって、顕彰碑はちょうど其の畔に建っている。
あみだ池の名は有名でも実際に池を目にした人の少ないのは、境内にあってわざわざ山門をくぐらないと辿り着けないからだろうが、目の当たりにして池の意外に小さいのには驚かされた。
実は、この伏屋素狄、調べてみると、庵主のかつての勤め先があった堺市は日置荘の生まれだそうで、関心の希薄な蘭方医にも関わらず、興味が湧いてきた。
今井先生から、足を運んだことはないが泉州に墓所がある云々という話を聞かされたので、調べてみると、いつも横を通る万町共同墓地内に伏屋家の墓所がある事が判明し、ちょうど運転免許の更新のついでがあった為(光明池の試験場からほど近い)、足を伸ばしてみた。
3月に惜しくも閉店してしまったが、墓地から徒歩2~3分の場所にあるイタリアンの老舗コンポステラさんには、一時期は月に一度のペースで通っていたので、今まで墓所を含め伏屋素狄そのものにあまりに無知であった事が悔やまれる。
平成28年に墓所の整理が行われたらしく、古い墓碑はあらたか無縁墓域のような格好になってしまっている。
古い『医譚』の記事を見て知ったのだが、素狄の墓碑は早くに所在不明になってしまっていたらしく、どうも小さな五輪塔の一つがそうであるらしい。
なお、このように大阪市内から外れた場所にある墓碑は、敬二郎の行動範囲の関係で『大阪訪碑録』には収載されていない。
私は蘭医にはまるで暗い為、最近まで名前くらいしか知らなかった医家なのだが、漢方医から蘭方医に転向して人体を含む各種解剖を盛んに行った人で、特に墨汁を腎臓に注入して、濾過および尿の生成機能を疑似的に観察したことで名高い。
日本実験生理学の祖である事を称え、図書館の東方にある浄土宗和光寺内に顕彰碑が建てられたのは昭和42年のこと。
実は、大阪市内を南北に走る幹線道路“あみだ池筋”の名称の由来となっているあみだ池は同寺の境内にあって、顕彰碑はちょうど其の畔に建っている。
あみだ池の名は有名でも実際に池を目にした人の少ないのは、境内にあってわざわざ山門をくぐらないと辿り着けないからだろうが、目の当たりにして池の意外に小さいのには驚かされた。
伏屋素狄碑(和光寺/大阪市西区北堀江3-7-27)
実は、この伏屋素狄、調べてみると、庵主のかつての勤め先があった堺市は日置荘の生まれだそうで、関心の希薄な蘭方医にも関わらず、興味が湧いてきた。
今井先生から、足を運んだことはないが泉州に墓所がある云々という話を聞かされたので、調べてみると、いつも横を通る万町共同墓地内に伏屋家の墓所がある事が判明し、ちょうど運転免許の更新のついでがあった為(光明池の試験場からほど近い)、足を伸ばしてみた。
3月に惜しくも閉店してしまったが、墓地から徒歩2~3分の場所にあるイタリアンの老舗コンポステラさんには、一時期は月に一度のペースで通っていたので、今まで墓所を含め伏屋素狄そのものにあまりに無知であった事が悔やまれる。
平成28年に墓所の整理が行われたらしく、古い墓碑はあらたか無縁墓域のような格好になってしまっている。
古い『医譚』の記事を見て知ったのだが、素狄の墓碑は早くに所在不明になってしまっていたらしく、どうも小さな五輪塔の一つがそうであるらしい。
なお、このように大阪市内から外れた場所にある墓碑は、敬二郎の行動範囲の関係で『大阪訪碑録』には収載されていない。
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