谷川龍山
- 2014/02/22
- 20:20
真勢中州の正統後継者である谷川龍山(1774~1831)は、安永3年の生まれで、名を順・久亮、字は祐信、通称を順助、号を龍山・含章堂といい、順祐と称した。
『浪速人傑談』は生地を播州東畑の人としているが、青木良仁先生が図書館で見つけて来た『播磨奇人伝』宇都宮大潔著によれば、「加東郡宿村の眼科の医師」とあり、著者の宇都宮大潔(1804~1875年・江戸時代末期から明治時代初期の土御門家の陰陽師)は、播州の生まれであるから、こちらの方が信頼出来るのではなかろうか。
加東郡宿村は、今の加東市屋度に当たり、現在も谷川姓が多いようだから、やはり生地はこの辺りのようだ。
また、眼科が専門であったことはこれまで知られておらず、新事実ではないだろうか。
医術は古方派で加古茂仙という人に学んだというが、『播磨奇人伝』によると、この人は加西郡小谷村の人で、大阪に出て来ていたようだ。
一時期、谷川龍山の医家としての顔に関心を抱いて、色々調べてみたが、真勢流の代表的病占書である『存々成務』は松井羅州の本であり、龍山の著作として『国書人名辞典』に記載されている『医易本義』は刊本ではなく稿本だったようだから、龍山の医方については残念ながら手掛かりとすべき資料がない。
龍山の号は、播磨の龍山からとられたものという。
今も龍山石という石材の産地として名高い龍山は、高砂市のJR山陽本線宝殿駅の西方にある。
一般に谷川龍山の龍山は「りゅうざん」と読まれているけれど、『周易釈故』を読めば判るように、真勢流では経文は徹底して漢音で読まれているから、これは「りょうざん」と読んでいたのではなかろうか。
谷川龍山は、天保2年の12月4日に58歳で世を去り、天満の宝縁寺に葬られた。
昭和44年に、実占研究会の会長であった渡辺観岳先生が、大阪ハカマイラーのバイブル『大阪訪碑録』を頼りに、龍山の墓碑を捜されたが、それらしい墓は見当たらなかったという。
『大阪訪碑録』は昭和4年の発行で、「宝縁寺は廃寺となり、墓属は九品寺となっている」とあり、渡辺先生は、宝縁寺が廃寺になった祭、無縁墓として処理されてしまったのではないかと推測されている(龍山には息子が一人あったが、夭折しているというから、子孫はそこで途絶えたのだろう)。
ところで、ウィキペディアの新井白蛾の項を見ると、「門下として真勢中州・谷川龍山・古澤白泉がいる。」となっているが、これは一体???
『浪速人傑談』は生地を播州東畑の人としているが、青木良仁先生が図書館で見つけて来た『播磨奇人伝』宇都宮大潔著によれば、「加東郡宿村の眼科の医師」とあり、著者の宇都宮大潔(1804~1875年・江戸時代末期から明治時代初期の土御門家の陰陽師)は、播州の生まれであるから、こちらの方が信頼出来るのではなかろうか。
加東郡宿村は、今の加東市屋度に当たり、現在も谷川姓が多いようだから、やはり生地はこの辺りのようだ。
また、眼科が専門であったことはこれまで知られておらず、新事実ではないだろうか。
医術は古方派で加古茂仙という人に学んだというが、『播磨奇人伝』によると、この人は加西郡小谷村の人で、大阪に出て来ていたようだ。
一時期、谷川龍山の医家としての顔に関心を抱いて、色々調べてみたが、真勢流の代表的病占書である『存々成務』は松井羅州の本であり、龍山の著作として『国書人名辞典』に記載されている『医易本義』は刊本ではなく稿本だったようだから、龍山の医方については残念ながら手掛かりとすべき資料がない。
龍山の号は、播磨の龍山からとられたものという。
今も龍山石という石材の産地として名高い龍山は、高砂市のJR山陽本線宝殿駅の西方にある。
一般に谷川龍山の龍山は「りゅうざん」と読まれているけれど、『周易釈故』を読めば判るように、真勢流では経文は徹底して漢音で読まれているから、これは「りょうざん」と読んでいたのではなかろうか。
谷川龍山は、天保2年の12月4日に58歳で世を去り、天満の宝縁寺に葬られた。
昭和44年に、実占研究会の会長であった渡辺観岳先生が、大阪ハカマイラーのバイブル『大阪訪碑録』を頼りに、龍山の墓碑を捜されたが、それらしい墓は見当たらなかったという。
『大阪訪碑録』は昭和4年の発行で、「宝縁寺は廃寺となり、墓属は九品寺となっている」とあり、渡辺先生は、宝縁寺が廃寺になった祭、無縁墓として処理されてしまったのではないかと推測されている(龍山には息子が一人あったが、夭折しているというから、子孫はそこで途絶えたのだろう)。
谷川龍山の墓拓の一部(『大阪訪碑録』より)
ところで、ウィキペディアの新井白蛾の項を見ると、「門下として真勢中州・谷川龍山・古澤白泉がいる。」となっているが、これは一体???
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