赤穂の大儒・赤松滄洲
- 2014/02/23
- 20:28
赤穂の大儒・赤松滄洲(1721~1801)は、播磨三日月に生まれ、名は鴻、字は国鸞、号は沿洲・静思翁、通称を大川良平といった。
実父は舟曳通益といい、17歳の時、赤穂藩医の大川耕斎の養子となる。
舟曳・大川両氏ともに播州の豪族・赤松氏より派生のため、著述の上では赤松氏を名乗った。
若い頃、京都に出て香川修庵(1683~ 1755)より医学を、儒学を宇野明霞(1698~1745)・岡白駒(1692~1767)に学ぶ。
延享4年(1747)赤穂藩儒となり、宝暦10年(1760)病のため致仕し、その後は京都で儒学を講じ、晩年は赤穂に帰った。
柴野栗山(1736~1807)や片山北海(1723~1790)等と親交があった。
易書に
『周易象義』
『周易便覧』
『読易備考』
等がある。
寛政13年(1801)に81歳で没し、赤穂の春日山興福寺(奈良の興福寺ではないので注意)に葬られた。
春日山興福寺は、JR赤穂線播州赤穂駅の近く、赤穂自動車教習所の裏手にあり、赤穂の名だたる儒臣の大半がここに葬られているという。
蒼流庵主人が訪れた際は、偶然にも御住職(丹波哲郎にクリソツ!)が墓地の掃除をされている所で、一時間ほどお茶を頂きながら、貴重なお話を伺うことが出来たのは、幸いであった。
春日山興福寺については何の予備知識も持ち合わせずに訪問したのだが、何とかの盤珪禅師(1622~1693)が悟りを開いた場所であるという。
墓地を散策してみたが、易経由来の号が刻まれた墓碑が沢山あったので、少しご紹介する。
河野履斎は赤松滄洲の子。
履斎の履字は、恐らく天沢履から来ているのだろう。
河野姓だから、これも赤松滄洲の一族であろう。
魯斎の魯字は、孔子の祖国である魯にちなんだものか。
この魯もそうだろう。
この碩字は、山地剥の上爻の辞「碩果不食」より来たものか。
中井玄端(1645~1720)は、播磨国竜野藩の儒医で、懐徳堂の二代目学主・中井甃庵(1693~1758)の父であり、宝永3年(1706)に一家を率いて龍野から大坂に移住した。
懐徳堂関係は、ハカマイラーにも人気が高いが、さすがに中井玄端は盲点だろう。
ここまで探墓していれば、最早筋金入りの懐徳堂ハカマイラーと言うに相応しい。
実父は舟曳通益といい、17歳の時、赤穂藩医の大川耕斎の養子となる。
舟曳・大川両氏ともに播州の豪族・赤松氏より派生のため、著述の上では赤松氏を名乗った。
若い頃、京都に出て香川修庵(1683~ 1755)より医学を、儒学を宇野明霞(1698~1745)・岡白駒(1692~1767)に学ぶ。
延享4年(1747)赤穂藩儒となり、宝暦10年(1760)病のため致仕し、その後は京都で儒学を講じ、晩年は赤穂に帰った。
柴野栗山(1736~1807)や片山北海(1723~1790)等と親交があった。
易書に
『周易象義』
『周易便覧』
『読易備考』
等がある。
赤松滄洲の墓(赤穂興福寺)
寛政13年(1801)に81歳で没し、赤穂の春日山興福寺(奈良の興福寺ではないので注意)に葬られた。
春日山興福寺は、JR赤穂線播州赤穂駅の近く、赤穂自動車教習所の裏手にあり、赤穂の名だたる儒臣の大半がここに葬られているという。
蒼流庵主人が訪れた際は、偶然にも御住職(丹波哲郎にクリソツ!)が墓地の掃除をされている所で、一時間ほどお茶を頂きながら、貴重なお話を伺うことが出来たのは、幸いであった。
春日山興福寺については何の予備知識も持ち合わせずに訪問したのだが、何とかの盤珪禅師(1622~1693)が悟りを開いた場所であるという。
墓地を散策してみたが、易経由来の号が刻まれた墓碑が沢山あったので、少しご紹介する。
河野履斎は赤松滄洲の子。
履斎の履字は、恐らく天沢履から来ているのだろう。
河野姓だから、これも赤松滄洲の一族であろう。
魯斎の魯字は、孔子の祖国である魯にちなんだものか。
この魯もそうだろう。
この碩字は、山地剥の上爻の辞「碩果不食」より来たものか。
中井玄端墓
中井玄端(1645~1720)は、播磨国竜野藩の儒医で、懐徳堂の二代目学主・中井甃庵(1693~1758)の父であり、宝永3年(1706)に一家を率いて龍野から大坂に移住した。
懐徳堂関係は、ハカマイラーにも人気が高いが、さすがに中井玄端は盲点だろう。
ここまで探墓していれば、最早筋金入りの懐徳堂ハカマイラーと言うに相応しい。
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