逝きし昭和の面影
- 2019/11/29
- 18:21
座談会「吉益東洞を語る」(『漢方と漢薬』昭和15年1月号81頁~108頁)
過ぎ去って二度と戻らぬ過去の時代を懐かしみ、「あの頃は良かった」と自らを慰めるのは老人の習性の一つ(それも大抵は傍に居る若い世代をうんざりさせる)であるが、その時代を生身では経験していない世代でさえ、そう感じざるを得ない事柄というのも色々あるようだ。
例えば、今日漢方医学に関する情報誌は、『日本東洋医学雑誌』に始り、実に様々なものが発刊されているのだが、時代の進歩を反映して中身の程度が向上していると思えるようなものは、少なくとも自らの鑑識眼を信じる限り、ただの一つも見つけ出す事が出来ない。
先日、久しぶりに戦前に刊行されていた『漢方と漢薬』の「吉益東洞を語る」という座談会の記録を読み返していたのだが、やはり其の感は再読によって強まったというべきであろう。
この座談会は、昭和14年12月10日に日比谷の松本楼で行われたもので、参加者は総勢8名、大塚敬節・早田玄伯・湯本求真・奥田謙蔵・和田正系・石原保秀・龍野一雄・気賀林一という豪華な顔ぶれ。
日取り的に忘年会を兼ねていたのではないかと思われ、すでに相当出来上がっているらしき湯本求真が、のっけから異様なテンションで飛ばしまくっているのが良い。
酔いが醒めて来たのか、だんだん発言がまともになって来るのだが、さすがに顔ぶれが顔ぶれだけに、非常に程度の高い議論が展開されていて、昨今、色々な雑誌で行われている座談の類とは、失礼ながら比較の対象にすらならないというのが正直な読後感。
古方家の顔ぶれがこれだけ揃っていると、単なる東洞礼賛に終始してもおかしくなさそうなものだが、親試実験の態度に科学精神の萌芽を認めつつも、多くの条文を後人の竄入として切り捨てた『輯光傷寒論』が後学を迷わせたことを指摘し、峻下剤を用い過ぎているという臨床上の偏りにも注意が払われていて、今日的視点から見ても、ほとんど修正の必要を感じさせるところがない。
最近は、漢方の世界でもEBMがどうのこうのとやかましく言われるようになって来て、勿論それが意味無き事とまで言うつもりはないけれど、せめてこの座談会の参加者くらいの経験的知的背景があるのでなくては、医学上の進歩というのも覚束ないのではなかろうか。
少なくとも、腕のさっぱりない人間がEBM等どうこういったところで何も始まらないというのが庵主の感想なのだが、医者は怒らせると自らの本分が“仁の術”である事など忘れて(いや端からそんなものは知らない手合いなのかもしれぬが)、嫌がらせマガイの事を平気でしてくるから、この辺りにとどめておく。
スポンサーサイト