保科嘉一郎
- 2014/02/24
- 19:30
真勢中州の門人に、保科嘉一郎(1765~1819)という人が居て、『浪速人傑談』は以下のように記している。
保科嘉一郎 髑髏亭と号す、浪速の人なり、温厚篤実抜群の人なり。
始文学を中井履軒に学ばれしが、中年の後真勢中州先生の門人となって、専易学を研究し、又老荘の学にふかく志をよせて、遂に其の道に達せられたり。
日本橋の北に住し、恒に書耕して衣食に代へ、余の書を論ずる事なく、唯易経、老子経、荘子の三経而已を終講して所作とせられしが、僕(政田義彦)が知りし人に、保科氏の門人両三人ありしが、其人の話に、凡保科氏の老荘の精密なる事、近代稀なる人なりと大に歎美せり。
文政二年己卯六月九日に終わる。齢五十五なり。
没後門人中岡春満と云人(中村屋重太郎と称す、砂糖や商家也、日本橋に住す)師の墓石を朽縄坂の浄春寺に建つ。
男子なくして女子ありしが、他に嫁せりと云。
猶易経、老子、荘子等に一家の見識を述たる遺書数部、写本にて家に蔵せしが、没後門人武橋鳩梁と云人、其遺書を授受せられしとぞ。
因に記す、此保科先生は、恒に麁衣韮食にして謹倹慎密のあつき人にてありし、実に賞すべき市中の隠士とも云べし。
然るに心狭き小人儒なり、或は固陋の鄙儒なりとして誹謗せし者もありしと聞り。
嗚呼世上の儒士の中には、口にいかめしく聖語を唱へ、経書を講じながら酒に酩酊して、無頼の者に等しき行ひをなし、或者門徒を欺き書籍の紹介して返て高直に売付、甚しきは骨董家に類せる業をして、諸人を誑惑して虚名をうり、利を弋の売僧儒者と相去事天地懸隔なり。
保科氏の門人に、武橋宮内と云人ありし、号を鳩梁と云、世々高津新地に居住し、元より豪富にして壮年より真勢の易学に志深く、遂に保科の門に入て易学をせられし、天性廉直の人にてありしが、天保四年癸巳五月に卒せられし、五十五才、保科氏門徒の中に於て、尤高足なりし。
私は浄春寺を数年前に訪れ、保科嘉一郎の墓碑を探してみたが、それらしいものは見当たらなかった。
住職に尋ねると、40年ほど前の墓地整理の際に処分されたのではないかという。
ここに、かつて石本有孚先生と渡辺観岳先生が二人で調査された際に撮られた写真があるので、お目にかける(処分されたのはお二人の調査の直後らしい)。
『大阪訪碑録』によると墓碑の裏面には
文政二年己卯夏六月九日卒業。享年五十有五.三女皆幼。中岡春滿建
と刻まれていたという。
保科嘉一郎 髑髏亭と号す、浪速の人なり、温厚篤実抜群の人なり。
始文学を中井履軒に学ばれしが、中年の後真勢中州先生の門人となって、専易学を研究し、又老荘の学にふかく志をよせて、遂に其の道に達せられたり。
日本橋の北に住し、恒に書耕して衣食に代へ、余の書を論ずる事なく、唯易経、老子経、荘子の三経而已を終講して所作とせられしが、僕(政田義彦)が知りし人に、保科氏の門人両三人ありしが、其人の話に、凡保科氏の老荘の精密なる事、近代稀なる人なりと大に歎美せり。
文政二年己卯六月九日に終わる。齢五十五なり。
没後門人中岡春満と云人(中村屋重太郎と称す、砂糖や商家也、日本橋に住す)師の墓石を朽縄坂の浄春寺に建つ。
男子なくして女子ありしが、他に嫁せりと云。
猶易経、老子、荘子等に一家の見識を述たる遺書数部、写本にて家に蔵せしが、没後門人武橋鳩梁と云人、其遺書を授受せられしとぞ。
因に記す、此保科先生は、恒に麁衣韮食にして謹倹慎密のあつき人にてありし、実に賞すべき市中の隠士とも云べし。
然るに心狭き小人儒なり、或は固陋の鄙儒なりとして誹謗せし者もありしと聞り。
嗚呼世上の儒士の中には、口にいかめしく聖語を唱へ、経書を講じながら酒に酩酊して、無頼の者に等しき行ひをなし、或者門徒を欺き書籍の紹介して返て高直に売付、甚しきは骨董家に類せる業をして、諸人を誑惑して虚名をうり、利を弋の売僧儒者と相去事天地懸隔なり。
保科氏の門人に、武橋宮内と云人ありし、号を鳩梁と云、世々高津新地に居住し、元より豪富にして壮年より真勢の易学に志深く、遂に保科の門に入て易学をせられし、天性廉直の人にてありしが、天保四年癸巳五月に卒せられし、五十五才、保科氏門徒の中に於て、尤高足なりし。
私は浄春寺を数年前に訪れ、保科嘉一郎の墓碑を探してみたが、それらしいものは見当たらなかった。
住職に尋ねると、40年ほど前の墓地整理の際に処分されたのではないかという。
ここに、かつて石本有孚先生と渡辺観岳先生が二人で調査された際に撮られた写真があるので、お目にかける(処分されたのはお二人の調査の直後らしい)。
『大阪訪碑録』によると墓碑の裏面には
文政二年己卯夏六月九日卒業。享年五十有五.三女皆幼。中岡春滿建
と刻まれていたという。
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