八月に至りて凶あり
- 2020/01/07
- 19:10
前回、「易辞に於ける方位」と題して、卦爻辞中の方位に関する記述について雑感めいた短文を綴ってみたが、これらの辞を用いて占断する場合、方位に言及する事に対して感じる不安は、そもそも『周易』には方角についての記述が至って少なく全方位の出揃っていない事と吉凶との結び付が不明瞭である点に起因している。
坤為地の「利西南得朋、東北喪朋」、水山蹇の「利西南、不利東北」、雷水解の「利西南」、地風升の「南征吉」、地火明夷九三の「明夷于南狩」辺りは、方位に於ける吉凶が割にはっきりしているが、沢雷随上六の「王用亨于西山」、雷山小過六五の「自我西郊」、水火既済六五の「東鄰殺牛、不如西鄰之禴祭」は、その時の占的にもよるとは言え、多くは方位と絡めた吉凶の判断を言いがたいのではなかろうか。
庵主が似たような占断の不安を感ずる辞に、地沢臨の卦辞に於ける「八月に至りて凶あり」がある。
この八月の解釈を巡っては大きく分けて二つの説があり、即ち暦上の八月と見る説と、八か月の月数と見る説との二説である。
前者の説では、八月に配される風地観を以て凶と見、後者の説では一陽来復の地雷復から八か月(復そのものを一か月と勘定)数えて天山遯の状態を凶と見るのであり、遯は臨の錯卦(裏卦)で、風地観がそれほど凶兆強き卦でない事もあって、後者の天山遯を以て八月と見る説が主流を成しているようだ。
他に庵主の目に留まったものとして、田口福司朗氏(1896~1985)の説があり、田口氏は、新城新蔵博士(1873~1938)の研究を引き、魯の文公頃より戦国の半ば、紀元前三百五六十年頃までは、冬至のある月を以て正月とする周正が用いられ、紀元前三百六十六を暦元として、それより後は、立春正月の夏正を用いた為、文公以前は、殷正に近い暦を用いている、と云い、殷正で配当すると一か月繰り上げられて八月は否卦となり、臨卦に云う八月とは天地否に他ならないとする。
この説は初め鄭玄によって唱えられたものらしいが、観や遯に比べて否は明らかに凶意が強いので、中々に説得力があるようだ。
ところで、これら諸説の基づくところは十二辟卦の考え方であり、十二消息卦とも呼ばれる此の思想は、前漢の孟喜なる易学者が唱えたものである。
結局は、臨卦の辞やそれを敷衍する彖伝に着想を得たものであろうが、そもそも、此の辞が陰陽の消長を基礎としたものかどうか、確たる証拠は一つもなく、聞一多(1899~1946)は、臨とは秋の長雨を言ったもので、だから八月とあるのだとしている。
いずれにせよ、これを従来の解釈通りに陰陽消長の思想で解したところで、何も我々を襲う災厄は、八月とも八か月後とも決まったものではないのだし、臨卦を得た場合にのみ、八月の凶に言及した占断をせねばならぬというものでもなかろう。
このような事に思いをはせるきっかけとなったのも、本を正せば當に年初の水山蹇であったに違いなく、凶難の卦からも幾らか学に資するものを引き出し得たとすれば、君子楽しみて玩ぶ所の者は爻の辞なり、と繋辞伝に自らを重ね合わせるのも、些の不遜を思わぬでもないとは言え、まんざら許されぬ事でもあるまい。
坤為地の「利西南得朋、東北喪朋」、水山蹇の「利西南、不利東北」、雷水解の「利西南」、地風升の「南征吉」、地火明夷九三の「明夷于南狩」辺りは、方位に於ける吉凶が割にはっきりしているが、沢雷随上六の「王用亨于西山」、雷山小過六五の「自我西郊」、水火既済六五の「東鄰殺牛、不如西鄰之禴祭」は、その時の占的にもよるとは言え、多くは方位と絡めた吉凶の判断を言いがたいのではなかろうか。
庵主が似たような占断の不安を感ずる辞に、地沢臨の卦辞に於ける「八月に至りて凶あり」がある。
この八月の解釈を巡っては大きく分けて二つの説があり、即ち暦上の八月と見る説と、八か月の月数と見る説との二説である。
前者の説では、八月に配される風地観を以て凶と見、後者の説では一陽来復の地雷復から八か月(復そのものを一か月と勘定)数えて天山遯の状態を凶と見るのであり、遯は臨の錯卦(裏卦)で、風地観がそれほど凶兆強き卦でない事もあって、後者の天山遯を以て八月と見る説が主流を成しているようだ。
他に庵主の目に留まったものとして、田口福司朗氏(1896~1985)の説があり、田口氏は、新城新蔵博士(1873~1938)の研究を引き、魯の文公頃より戦国の半ば、紀元前三百五六十年頃までは、冬至のある月を以て正月とする周正が用いられ、紀元前三百六十六を暦元として、それより後は、立春正月の夏正を用いた為、文公以前は、殷正に近い暦を用いている、と云い、殷正で配当すると一か月繰り上げられて八月は否卦となり、臨卦に云う八月とは天地否に他ならないとする。
この説は初め鄭玄によって唱えられたものらしいが、観や遯に比べて否は明らかに凶意が強いので、中々に説得力があるようだ。
ところで、これら諸説の基づくところは十二辟卦の考え方であり、十二消息卦とも呼ばれる此の思想は、前漢の孟喜なる易学者が唱えたものである。
結局は、臨卦の辞やそれを敷衍する彖伝に着想を得たものであろうが、そもそも、此の辞が陰陽の消長を基礎としたものかどうか、確たる証拠は一つもなく、聞一多(1899~1946)は、臨とは秋の長雨を言ったもので、だから八月とあるのだとしている。
いずれにせよ、これを従来の解釈通りに陰陽消長の思想で解したところで、何も我々を襲う災厄は、八月とも八か月後とも決まったものではないのだし、臨卦を得た場合にのみ、八月の凶に言及した占断をせねばならぬというものでもなかろう。
このような事に思いをはせるきっかけとなったのも、本を正せば當に年初の水山蹇であったに違いなく、凶難の卦からも幾らか学に資するものを引き出し得たとすれば、君子楽しみて玩ぶ所の者は爻の辞なり、と繋辞伝に自らを重ね合わせるのも、些の不遜を思わぬでもないとは言え、まんざら許されぬ事でもあるまい。
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