高島嘉右衛門と古易
- 2014/02/25
- 18:48
高島嘉右衛門の立筮
加藤大岳先生の初期の著作では、真勢中州の易法を賛美する余り、高島嘉右衛門をかなり低く評価していた感がある。
實に、我邦に於ける占術の研究と實踐は、白蛾・中州の時代に殆んど其の悉くが究め盡された觀があり、正に其の點に於ては、斯道の最高峰を實現し、高島以下は寧ろ低下して居たことを認めなければならない。(『易学病占』26頁)
もっとも、これは最初期に書かれたものであり、晩年に至って同じ評価をされていた訳ではないと思うし、特に大岳先生の出発点が熊崎健翁先生の易(要するに高島流)であった事とも無関係ではなかろう。
私は高島嘉右衛門の易法(筮法も含めて)について、少し人と違う考えを持っている。
それは、高島嘉右衛門の求めたものこそ、新井白蛾の言う古易(白蛾は古易という語を自身の書名を含め多用しているが、これは白蛾の創案ではなく、伊藤古義堂にて使用されていたものを白蛾が失敬したものらしい)でなかったかと思うからである。
白蛾が古易館を名乗り、中州が復古堂と号して、春秋左伝に記載されている易法を理想としながらも、実際には似ても似つかない占法となっている不可思議については、再三論じた処であるが、これは嘉右衛門自身もそう感じていたのではないかと思う。
左国の易のように、辞占こそ古来の易と読み取った結果として辿り着いたのが、あの三変筮であり、これが白蛾や随貞の三変筮の延長線上のものでないことは、加藤大岳先生も詳しく論じておられるところだ。
本筮法や中筮法では、爻辞を一定してとるのは難しい、さりとて朱子の七考占が実用性を著しく欠くものであることは明らかだ、さすれば、筮法を三変にして確実に爻辞を選択出来る方が、辞占には合理的である、と考えたのではないか。
また、『周易釈故』に明らかなように、中州は経文にも自由に改訂を加え(薮田先生はこれを羅州の仕業と見るけれど)、筮竹に代えて円蓍などという簡易立卦具をためらいなく用いており、古い周易の形式や作法にはあまり頓着していない様子が窺われるが、呑象の易筮はあくまでも厳粛を極め、簡易立卦具は全く用いない。
呑象は獄中時代、筮竹が手に入らないので、やむなく紙よりで代用品を作ったが、紀藤先生は『乾坤一代男』において「彼が複雑な本筮法や中筮法を避けて、生涯ほとんど略筮法という筮法を使用しつづけたのは、あるいは、こういう環境のもとで習得したという、その特殊性のあらわれだったかも知れない」と書いているけれど、私はそうではないと思う。
あれだけの頭脳の持ち主であり、文明開化を其の身に受けて、進取の精神も旺盛な人が、そんな保守的な理由だけで三変筮を使い続けたとは思えないからだ。
また、呑象の易が白蛾中州の時代より後退したものとも思えない。
高島嘉右衛門という人は、同じく獄中生活を経験している水野南北などとは比較にならないくらい学問があった人で、商家の出身ではあるが、学問の大切さを知っていた父親の影響で、立派な教養を身に付いており、素読もかなり出来たようだ。
呑象の嗣子・高島長政翁によると大変な読書家で、日本の易書のほとんどに目を通していたのではないかというし、真勢易についても徹底して調べていた様子が、中国語版の『高島易断』に記されている。
私は江戸時代の易学・易術を全て検討したうえで成立したものが、高島嘉右衛門の易であり、呑象なりに左国易の精神を再現したものが高島易だったのではないかと思う。
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