里中長治先生のこと
- 2020/04/01
- 18:34
先日届いた近植会報No130で、終身会員の里中長治先生が昨年2月に逝去されていた事を知った。
驚いたと言えば嘘になる。
むしろ、会報が届いて目を通す度、お名前が何処にも見当たらないのを確認して安堵するというのが毎年の事になっていたからだ。
「ちょーやん」の愛称で親しまれた此の先生とお会いしたのは、6~7年前のことであったろうか。
その頃は、異常な情熱をもって取り組んでいた生薬探偵の最盛期で、岬町近辺の海岸に自生するというフウトウカズラを必死で探していた。
山住会長曰く楽勝で見つかるというのだが、それは達人の域を超えて名人の境地に到達した会長にして初めて可能であるらしく、散々探し回ったものの一向に気配すら感じる事が出来ない。
海岸付近の林縁部を狙うというのだが、それらしいものが見当たらずに時間ばかりが過ぎて行くので、道行く人に家でプリントアウトして来た写真を見せて、このような植物を目にしたことは御座らんか?と尋ねるのを繰り返したところ、その大半が「里中長治先生に聞けば判るだろう」というのだった。
この時はよく知らなかったが、岬町の小学校々長を長年務められた町の名士で、地元でも大変慕われているらしいということは人々の話ぶりから感じることが出来た(アマチュア古生物学時代にお世話になった金屋町の門田英夫先生の事が重なって思い出される。もう四半世紀に近い昔のこと。その門田先生も今は亡い)。
岬町には里中姓が随分あり、偶然通りかかって目にした表札のお宅で事情を説明したところ、先生のお宅に電話をかけて下さったのだが、残念ながら先生は何かの用事で京都にお出かけだったらしく、お帰りはかなり遅くなるとかで、後日改めて訪問させて頂くことになった。
一週間ほどして再び岬町入りしたのだが、到着したとき、先生は見守り隊で通学路に立ち子供たちに声を掛けておられるところだった。
ご挨拶して一手御指南頂きたいと申し出ると、ご自宅に案内して下さり、そこで付近の植生について、資料を広げながら簡単に解説してくださったが、90歳を超えているとは思えない快活さであられたのが今も印象に残っている。
この時、初めて知ったのだが、なんと先生は古くからの近畿植物同好会の会員(今回届いた会報で1964年の御入会である事を知った)で、要は我が大先輩に当たられるのだった。
帰宅して調べてみると、大阪南部での例会では先生が引率された事も度々あったらしい。
生薬探偵の会歴は未だ十年に満たないので、観察会で先生とご一緒する機会はなく、2015年に終身会員に推挙された際も、先生は体調不良を理由に欠席され、流石に100歳近い御高齢になると外出も、まして岬町という大阪最南端からとなれば難しくなられていたのだろう。
大阪南部の植生調査において大きな成果を上げられ、多くの標本が現在長居の大阪自然史博物館に収蔵されているというが、先に清水千尋先生、上久保文貴先生が鬼籍に入られ、里中先生を失った今、泉州をフィールドに熱心に植生調査を続けられた大御所的存在のお名前を存命者では最早一人も挙げる事が出来なくなってしまったように思う。
心よりご冥福をお祈り致します。
そういえば、未だに府下ではフウトウカズラを見つけられていない。
驚いたと言えば嘘になる。
むしろ、会報が届いて目を通す度、お名前が何処にも見当たらないのを確認して安堵するというのが毎年の事になっていたからだ。
「ちょーやん」の愛称で親しまれた此の先生とお会いしたのは、6~7年前のことであったろうか。
その頃は、異常な情熱をもって取り組んでいた生薬探偵の最盛期で、岬町近辺の海岸に自生するというフウトウカズラを必死で探していた。
山住会長曰く楽勝で見つかるというのだが、それは達人の域を超えて名人の境地に到達した会長にして初めて可能であるらしく、散々探し回ったものの一向に気配すら感じる事が出来ない。
海岸付近の林縁部を狙うというのだが、それらしいものが見当たらずに時間ばかりが過ぎて行くので、道行く人に家でプリントアウトして来た写真を見せて、このような植物を目にしたことは御座らんか?と尋ねるのを繰り返したところ、その大半が「里中長治先生に聞けば判るだろう」というのだった。
この時はよく知らなかったが、岬町の小学校々長を長年務められた町の名士で、地元でも大変慕われているらしいということは人々の話ぶりから感じることが出来た(アマチュア古生物学時代にお世話になった金屋町の門田英夫先生の事が重なって思い出される。もう四半世紀に近い昔のこと。その門田先生も今は亡い)。
岬町には里中姓が随分あり、偶然通りかかって目にした表札のお宅で事情を説明したところ、先生のお宅に電話をかけて下さったのだが、残念ながら先生は何かの用事で京都にお出かけだったらしく、お帰りはかなり遅くなるとかで、後日改めて訪問させて頂くことになった。
一週間ほどして再び岬町入りしたのだが、到着したとき、先生は見守り隊で通学路に立ち子供たちに声を掛けておられるところだった。
ご挨拶して一手御指南頂きたいと申し出ると、ご自宅に案内して下さり、そこで付近の植生について、資料を広げながら簡単に解説してくださったが、90歳を超えているとは思えない快活さであられたのが今も印象に残っている。
この時、初めて知ったのだが、なんと先生は古くからの近畿植物同好会の会員(今回届いた会報で1964年の御入会である事を知った)で、要は我が大先輩に当たられるのだった。
帰宅して調べてみると、大阪南部での例会では先生が引率された事も度々あったらしい。
生薬探偵の会歴は未だ十年に満たないので、観察会で先生とご一緒する機会はなく、2015年に終身会員に推挙された際も、先生は体調不良を理由に欠席され、流石に100歳近い御高齢になると外出も、まして岬町という大阪最南端からとなれば難しくなられていたのだろう。
大阪南部の植生調査において大きな成果を上げられ、多くの標本が現在長居の大阪自然史博物館に収蔵されているというが、先に清水千尋先生、上久保文貴先生が鬼籍に入られ、里中先生を失った今、泉州をフィールドに熱心に植生調査を続けられた大御所的存在のお名前を存命者では最早一人も挙げる事が出来なくなってしまったように思う。
心よりご冥福をお祈り致します。
そういえば、未だに府下ではフウトウカズラを見つけられていない。
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