『日本ぶらりぶらり』山下清著
- 2020/05/07
- 22:51
『日本ぶらりぶらり』山下清著(ちくま文庫/1998年刊)
小人閑居して不善を為す等というが、そのせいか、緊急事態宣言発令以降、頭のおかしなコメントが連続で来ていて些かウンザリさせられている。
人様にご迷惑を掛けるのも嫌だからGWは大人しく読書でもして過ごそうという殊勝な心掛けの人は小市民ではあっても小人にはあらず、自宅待機を強いられて、憂さ晴らしのツールがネット以外に見つからないというようなのは典型的な不善を為す小人の範疇に違いない。
もっとも、いざ読書をしようと思い立ったところで、手元に本がなければどうにもならず、図書館は軒並み閉館、貧乏人にとって頼みの綱のブックオフも同じく臨時休業というのだから、これを機に読書の習慣を身に着けようというのはどうも難しい話のようだ。
私は普段から何かしらの書物を開いているので、自宅待機だろうがGWだろうが、さして代わり映えのしない生活と言えば言えるのだが、たまには気分を変える意味でも何か平素手に取らぬ本をと思い立って、書棚から抜き出してみたのが、“裸の大将”山下清(1922~1971)の『日本ぶらりぶらり』。
山下清といっても、若い世代にはドランクドラゴンの塚地が演じた知的障害と放浪癖を持つ貼り絵の得意なオッサンくらいのイメージしか無いかもしれないが、そういう人もそうでない人も是非一度本書を手に取ってもらいたいと思う。
1958年に文芸春秋新社より刊行されたものをちくま文庫の一冊として復刊した本で、内容は清の日記なのだが、この日記、そんじょそこらの娯楽本とは比較にならないくらい面白い、いや、もうべらぼうに面白いのである。
例えば、冒頭をかざる「鹿児島よいとこ」はこんな感じだ。
~前略~
ぼくが兵隊のくらいの話をするとどうして笑うのかわからない。ぼくが徳川むせいというラジオのおじさんと話してから兵隊のくらいがはやりことばになっていると弟がおしえてくれた。笑われるときまりがわるいので、このごろはすこし考えて目方のことでいうようにしている。ことに女のひとをみると、何貫めあるかときく。年をきいて目方をきくとそのひとのけんとうがつくので、だれにでもきくが正直にこたえてくれる人と答えてくれない人がいる。目方が多ければじまんしてもよさそうなのに、どうしてかくすのかぼくにはわからない。ぼくは美人も美人でないのもあまりよくわからないので、目方をきくほかはない。三十貫の女がいたらどんなに遠くにいても出かけていってみたいものだ。十八貫とか二十貫の女はときどきみたことがあるが、三十貫というのはしらない。肥って力のありそうな女はたのもしい気がする。
世界一の女は七十貫もあるときいて、びっくりした。ほんとにそんな女がいるだろうかときいたら、アメリカにいて日本へもきたことがあるというからほんとの話だろう。何とかしてみたいものだ。もしぼくの展らん会がアメリカにあってゆけたら何よりその女のひとがみたい。
(11~13頁)
「清に毛がはえた」も面白い。
長崎の岡政というデパートでぼくの絵の展らん会があった。食堂でめしをたべているとぼくの前にいる人が、「わしも山下清に毛のはえたような男です」とよその人に話していた。
ぼくはびっくりしてぼくに毛がはえるというのは、どういうわけですか。どこに毛があるとあなたになるのですかときいたら、みんながどっと笑った。
その人はぼくの質問にこたえてくれないで、にやにやしている。ぼくは何でも知っていると思う式場先生にそのわけをきいた。するとそれはちょっと説明しにくいが、にているということばにいろをつけたのだと教えられた。そのいろをつけるというのがまたわからないというと、いいまわしをかえるのだと教えられた。
この前、鳥取の宿で近所で酒をのんで夜おそくまでさわぐ人があったのでねむれなくて困るといったら先生は、それは災なんというものだよと教えてくれた。それからぼくはちょっとつらいことがあると、すぐこの災なんということばをつかうので、きみは京都で哲学ということばをおぼえて、むつかしいことになるとこれは哲学ですかといったが、こんどは災なんをつかいだすのかといわれた。すると長崎できいた「清に毛がはえた」というのも、ぼくがこれからつかうことになるのだろうか。
それにしても清に毛がはえたというのは、どうもわけがわからない。これは哲学よりもっとむつかしいようだ。ぼくはもう三十四で毛はみんなはえてるのに、この上どこにどんな毛がはえるのだろうか。ぼくは頭がわるいのでわからぬことが多いのです。
(28~29頁)
全編こんな調子なのだが、端々に清の澄んだ視線が感じられて、ドキリとさせられる事も多い。
文楽の人形をつくる天狗久(※初代から三代まで居るが、清が会ったのは三代目)の仕事を見せてもらい、
天狗久さんの人形はきれいだ。顔のほり方、色のつけ方もひとつひとつみんなちがっていて、あれに胴体と手足をくっつけたら歩き出しゃしないかと思うほどだ。人形芝居はみたことがないが、人間の芝居とどっちが面白いのだろう。式場先生が「この人はおじいさんの代から日本一の人形つくりだ」と教えてくれた。そうすると大将ということになるが、もっと立派な家に住んでいないのはおかしい。人形つくりは、うまくてもあまり金にならないのかな。おじさんは何をきいても、あまり話をしないでこつこつと人形の頭をほっていた。やはりえらい人のようだった。
(55頁)
と記しているあたりは、何とも言えない含蓄があるように私には思われる。
読み進めるうち、或いは禁断の果実を食らう前のアダムとイブというのは、こんな具合の人間だったのじゃなかろうかとも思えて来るのだが、裸の大将は意外に恥ずかしがり屋だったらしく、フルチンフルマンの人類の先祖程にはピュアではなかったようだ。
その証拠に、この日記には、清の処世術の一端も垣間見えていて、
自動車にのり鹿児島にかえると旅館に乞食が来ていた。この乞食は、ただめしをくれ、めしをくれといってるばかりで、なかなかどこうとしない。これはへただ、ぼくだったら、よくそのわけをはなして、どうしても、くれないようなら、すぐ次の家へ行く。だから、たいがい三度々々ぼくはたべられたが、こういう乞食は、しまいには、悪いことをするかもしれない。だからおれも時々巡査にうたぐられて、しらべられるのだろうと思った。
(40頁)
書いている。
抱腹絶倒間違いなし、読後感も爽やかな一冊だが、嬉しい事にエピソードごとの清のペン画がふんだんに収載されていて、所詮は文庫サイズなので鑑賞には不向きではあるものの、画集として楽しむ事も出来ぬでもない。
よくブックオフの100円の棚でも見掛けるが、こんな本なら新本を定価で買ったところで、何倍もの値打ちがあるというものだろう
スポンサーサイト