講演ぎらい
- 2020/05/22
- 18:46
時折、研究内容を人前で開陳せよという依頼があって、寡黙だけが取り柄の庵主は閉口して基本的に全て謝絶しているのだが、それでも虚を突かれて引き受けざるを得ない事態に立ち至る事がある。
昨年もそのように逃げられない状況に追い込まれて、二件お引き受けする事になってしまったが、幸い今年はコロナの影響もあるのか、かかる依頼(引き受ける時は依頼ではなく指令になるのだが)は全く来ておらず、安堵している。
私は基本的に学会には所属しないようにしているから、エントリーして演壇に立つ事はこれまでもこれからも一切無いと思うが、世の中には自ら応募して発表するという人が随分居るらしい。
個人的には理解に苦しむところがあるが、それが自身の研究のモチベーションに直結するという人は少なくないらしく、期日を決めて己に課す事で研究を練り上げて行くのがセオリーなのだそうだ。
自分を追い込まないとヤル気が起きないというのは、畢竟自分に不向きな適性の無い事をやっているということなのではないかと私には思えるのだが、人様の事にはさしたる関心はない。
むしろ、自らエントリーして喋らせてくれという人がこれだけ居るのだから、私のような嫌がる者を無理矢理演壇に立たせる必要など無さそうなものだが、あえて言わせてもらうと、エントリー型の演者というのは、えてして発表内容が詰まらないようだ。
失礼ながら、何故このように退屈な、もっと言えば恐らくは聴衆全員がつまらなく感じるような話を自ら進んでやるのだろうかという気さえする。
それどころか、演者自身が実につまらなそうに配布した紙を棒読みしているだけというのが幾らでもあって、これでは聴衆が退屈するのも無理のない事だろう。
そもそも、その程度のものなら、紙上発表で事足りる筈だ。
或いは私のような嫌がる者にもやらせようというのは、退屈な演者ばかりなので、そうでないものを発掘するという意味合いがあるのだろうか。
しかし、それならそれでもうちょっと依頼の仕方というのがあるだろうと思う。
何でも良いから喋ってくれというのでは、貴重な時間を使って準備する事を強いられる相手に対して失礼な話ではないか。
私は何も講演を端から謝絶したいという訳ではなく、そこに名分ある事を示す必要があると思うのである。
例えば、その会内で或る分野に対する関心が高まっていて、それについて話せる人として光栄にも名前が挙がったというなら、推薦者の顔を立てて赴くことも吝かではないし、テーマが与えられているなら、こちらとしてもやりやすい。
実際にそういう依頼のされ方をした場合は、若干の抵抗を示すにとどめて割にすんなり観念して来た記憶がある。
いつだったか、多少義理のある人に頼まれて、嫌々ながら引き受けたら、当日信じられないくらいに鈍そうな顔ぶればかりの集まりで、疲労困憊して帰って来た事があった。
無償で引き受けただけに、ただ疲れが残っただけの思い出でしかないが、恐らくオーディエンスにとっても何も得るところはなかったのではないかと思う。
せめてどちらかが益を受けるものでないと、演者も救われないというものだ。
ところで、何故こうも講演が億劫なのかを考えていて、人に進んで伝えたい何物も持たない私は、自分の中で完結している事柄を理解されるかどうか判らない聴衆に対して発表するということが単に煩わしいのだろうという結論に至らざるを得ない。
自ら出した結論を虚しく反芻するだけになる訳だからこれも当然だろう。
論文として発表するものを予め口頭発表して煮詰めていくという人も少なくないらしいが、そのような煮詰まっていない内容を人前で先に喋るというのは猶の事私には抵抗がある。
いずれにせよ、何も引き受けずに年を越せたら、それもコロナの恩恵の一つであるのかも知れず、ただでさえ悪者扱いしかされない疫病にだって少しくらいは利点とでもいうべきものが、マスク屋でも消毒液屋でもない庵主にもありはせぬかと考えていて、ふと思いついた考えを開陳してみたまでのことだ。
昨年もそのように逃げられない状況に追い込まれて、二件お引き受けする事になってしまったが、幸い今年はコロナの影響もあるのか、かかる依頼(引き受ける時は依頼ではなく指令になるのだが)は全く来ておらず、安堵している。
私は基本的に学会には所属しないようにしているから、エントリーして演壇に立つ事はこれまでもこれからも一切無いと思うが、世の中には自ら応募して発表するという人が随分居るらしい。
個人的には理解に苦しむところがあるが、それが自身の研究のモチベーションに直結するという人は少なくないらしく、期日を決めて己に課す事で研究を練り上げて行くのがセオリーなのだそうだ。
自分を追い込まないとヤル気が起きないというのは、畢竟自分に不向きな適性の無い事をやっているということなのではないかと私には思えるのだが、人様の事にはさしたる関心はない。
むしろ、自らエントリーして喋らせてくれという人がこれだけ居るのだから、私のような嫌がる者を無理矢理演壇に立たせる必要など無さそうなものだが、あえて言わせてもらうと、エントリー型の演者というのは、えてして発表内容が詰まらないようだ。
失礼ながら、何故このように退屈な、もっと言えば恐らくは聴衆全員がつまらなく感じるような話を自ら進んでやるのだろうかという気さえする。
それどころか、演者自身が実につまらなそうに配布した紙を棒読みしているだけというのが幾らでもあって、これでは聴衆が退屈するのも無理のない事だろう。
そもそも、その程度のものなら、紙上発表で事足りる筈だ。
或いは私のような嫌がる者にもやらせようというのは、退屈な演者ばかりなので、そうでないものを発掘するという意味合いがあるのだろうか。
しかし、それならそれでもうちょっと依頼の仕方というのがあるだろうと思う。
何でも良いから喋ってくれというのでは、貴重な時間を使って準備する事を強いられる相手に対して失礼な話ではないか。
私は何も講演を端から謝絶したいという訳ではなく、そこに名分ある事を示す必要があると思うのである。
例えば、その会内で或る分野に対する関心が高まっていて、それについて話せる人として光栄にも名前が挙がったというなら、推薦者の顔を立てて赴くことも吝かではないし、テーマが与えられているなら、こちらとしてもやりやすい。
実際にそういう依頼のされ方をした場合は、若干の抵抗を示すにとどめて割にすんなり観念して来た記憶がある。
いつだったか、多少義理のある人に頼まれて、嫌々ながら引き受けたら、当日信じられないくらいに鈍そうな顔ぶればかりの集まりで、疲労困憊して帰って来た事があった。
無償で引き受けただけに、ただ疲れが残っただけの思い出でしかないが、恐らくオーディエンスにとっても何も得るところはなかったのではないかと思う。
せめてどちらかが益を受けるものでないと、演者も救われないというものだ。
ところで、何故こうも講演が億劫なのかを考えていて、人に進んで伝えたい何物も持たない私は、自分の中で完結している事柄を理解されるかどうか判らない聴衆に対して発表するということが単に煩わしいのだろうという結論に至らざるを得ない。
自ら出した結論を虚しく反芻するだけになる訳だからこれも当然だろう。
論文として発表するものを予め口頭発表して煮詰めていくという人も少なくないらしいが、そのような煮詰まっていない内容を人前で先に喋るというのは猶の事私には抵抗がある。
いずれにせよ、何も引き受けずに年を越せたら、それもコロナの恩恵の一つであるのかも知れず、ただでさえ悪者扱いしかされない疫病にだって少しくらいは利点とでもいうべきものが、マスク屋でも消毒液屋でもない庵主にもありはせぬかと考えていて、ふと思いついた考えを開陳してみたまでのことだ。
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