若き日の初代玄竜子・目黒要太郎先生
初代玄竜子・目黒要太郎先生(1873~1938)は、東京は日本橋で帝国人相学院を主催し、大正~昭和初期にかけて主だった活動をされた日本相学史上の巨星で、門下からは大熊光山先生や中村文聰先生(1906~1980)といった優れた相学者を輩出した。
ネット上ではどういう訳か、初代玄竜子の活動時期を「江戸時代末期から明治時代」と記載しているものがあるけれど、とんでもない誤りであり、生没年を確認すれば江戸時代に活躍しようもないことは明らかで、著作の出版年代は明治末期から昭和初期にかけてであるから、主な活動は大正年間とするべきであろう。
玄竜子といえば「芝の石竜子」と並んで「日本橋の玄竜子」と呼ばれたように、東京日本橋のイメージが強いが、新潟の産で、『姓氏家系大辞典』によれば、佐渡島に多い姓であり、現在も目黒町という町名が残っているが、或いは初代玄竜子も佐渡に所縁の人であったか。
玄竜子は言うまでもなく人相学の大家であるが、初代は易占にも天分を発揮したらしく、相場占で財を成し、岡部長景(東条内閣で文部大臣を務め、加藤高明や岩崎弥太郎等は親戚筋である)の妹と結婚されたのは、その富裕によるところもあったらしい。
その易占は
平澤随貞の影響下にあったと言われているが、真勢易にも強い関心をもって研究されていたようである。
初代は大変な勉強家で、東京及び近在の易者や人相見が死ぬと、その遺族は大抵占いの何たるかを理解できず、その蔵書など二束三文で売ってしまうので、古本屋より高い値段で買い取って大八車で運ばせ、屑みたいなものの中から、研究に値する古本・写本を選び出し、一所懸命読み漁って、研究を深めたらしい。
また、大日本陰陽会(いまの公益社団法人・日本易学連合会の前身)が社団法人の認可を受ける際(昭和3年)、かげで色々骨を折られたという。
なお、初代玄竜子は自身の死期をかなり早くから予知されていたという話が、中村文聰先生発行の『神秘科学』第四巻第二号・目黒玄竜子先生追悼号(昭和13年)に出ており、没後に未亡人が遺品整理をした際、易の手帖には「満六十五才、六十六才は注意年」と書かれていたという。
蒼流庵主人が関心を持つのは、初代玄竜子が如何なる人相家に師事したかということで、これは推測であるが、四代目か五代目かの石竜子先生(石龍子については中山茂春氏が日本医史学雑誌に発表された『石龍子と相学提要』に詳しい)ではなかったか。
玄竜子の名も石竜子にあやかってつけられたと見られなくもないし、玄竜子相法の特色でもある“人相学の科学化”という学風にしても、石竜子の著述に既に濃厚に見られる傾向である。
たとえ直接師事したものではないとしても、多大な影響を被っていたことは間違いないと思われる。
なお、本日2月28日は玄竜子先生の命日に当たる。
今も相法家を啓発し続ける玄竜子先生の霊に、読者諸賢も手を合わせて頂きたい。
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