岡本一抱~楽しいイエマイル~
- 2020/06/13
- 18:21
目ぼしい掃苔の殆どをやりつくして退屈していた一頃、ポッカリ空いた心の隙間を医家先哲の居宅跡探訪で埋めていた事がある。
2016年から2017年にかけての事だ。
江戸時代には住宅地図のような詳細なものがないから、ピンポイントで特定するのは難しいが、京都であれば、『平安人物志』の如き資料があるから、通りくらいは、大よその場所を知る事が出来、医人に関しては、『京都の医学史』資料編収載の『良医名鑑』や『天保医鑑』などの資料もある。
このイエマイルも振り返れば結構な件数やって来たのだが、最近になって京都観光案内の古典である『京羽二重』にも医家の所在について記載がある事を知った。
『平安人物志』がそうであるように、同書にも刊年により多くの版があるが、宝永二年(1705)版巻之三には「諸師諸芸」の項に、「医書講説」家として岡本一抱の名が見えており、所在は「高倉ゑびす河上ル丁」となっている。
宝永二年と言えば、一抱52歳の年で、前年の宝永元年六月には『素問入式運気論奥諺解』(七巻)、翌三年には『難経本義諺解』(十二巻)や『和剤局方発揮諺解』(六巻)、『医学入門諺解』などが刊行されており、旺盛な著述活動が見られた時期だ。
引っ越しのサカイもアリさんマークも無かった時代だが、『平安人物志』などを見ると、結構頻繁に転居している人物少なくなく、一抱子がどうであったのかは判らぬものの、我々が今日目にする彼の諺解書の少なからぬ数が、ここで著された可能性は高かろう。
地図を見ると、有名な吉益東洞宅蹟とは間之町通を隔てただけの位置である事が判る。
2016年から2017年にかけての事だ。
江戸時代には住宅地図のような詳細なものがないから、ピンポイントで特定するのは難しいが、京都であれば、『平安人物志』の如き資料があるから、通りくらいは、大よその場所を知る事が出来、医人に関しては、『京都の医学史』資料編収載の『良医名鑑』や『天保医鑑』などの資料もある。
このイエマイルも振り返れば結構な件数やって来たのだが、最近になって京都観光案内の古典である『京羽二重』にも医家の所在について記載がある事を知った。
『平安人物志』がそうであるように、同書にも刊年により多くの版があるが、宝永二年(1705)版巻之三には「諸師諸芸」の項に、「医書講説」家として岡本一抱の名が見えており、所在は「高倉ゑびす河上ル丁」となっている。
宝永二年と言えば、一抱52歳の年で、前年の宝永元年六月には『素問入式運気論奥諺解』(七巻)、翌三年には『難経本義諺解』(十二巻)や『和剤局方発揮諺解』(六巻)、『医学入門諺解』などが刊行されており、旺盛な著述活動が見られた時期だ。
引っ越しのサカイもアリさんマークも無かった時代だが、『平安人物志』などを見ると、結構頻繁に転居している人物少なくなく、一抱子がどうであったのかは判らぬものの、我々が今日目にする彼の諺解書の少なからぬ数が、ここで著された可能性は高かろう。
高倉夷川上ル
地図を見ると、有名な吉益東洞宅蹟とは間之町通を隔てただけの位置である事が判る。
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