『論語』雑感
- 2020/06/26
- 20:35
時々蒼流庵随想を読んでいるという友人A氏より、「こんなに庵主が『論語』を嫌っているとは知らなかった」という旨のメールが昨夜送られて来て、白状すれば些かの戸惑いを感じている。
成る程、立て続けに孔子や『論語』の悪口めいた事を書き連ねてみたから、そのような誤解を受けたのやもしれないが、これは私の真意を甚だ掴み損ねていて、むしろ私は『論語』ほどに味わい深い古典というものを支那では他に見出し得ないのではないかとすら思っている位なのだ。
現代を最もよく把握し、最も正しい結論を得ようと思えば、論語で十分である、と言っても過言ではない。
日常いろいろの問題や現象にぶつかって、考える。考えると、ことごとく論語に書かれてある。
という安岡正篤氏の論語讃歌を額面通りに受け取る気にもなれないけれど、公田連太郎翁が生涯もっとも良く読まれた書物が『論語』であったというだけで、私のような翁の没後の門人を自任する人間には強く惹かれるところがある。
実際に読んでみると、例えば儒教のことを“孔孟の思想”などと云って、孔子と孟子は古くからワンセットのように扱われている節もあるけれど、饒舌と詭弁の鼻につく『孟子』は、『論語』の持つ深みには及ぶべくもないというのが、私の実感であると云って良い。
ただし、この“深み”というのは若干曲者で、分かったような分からないような独特な余韻が読後に残るという『論語』の特徴の一つが、この“深み”を感じさせるからくりの主要な部分でもあって、これが「分かったような」気になるのは、先人の半ば強引に附した注解の助けを借りて読むからだという事は胆に銘じておくべきだろう。
それくらいに、『論語』というのは一見簡単なようでいて、難解極まりない書物であり、学童に読ませて人格形成を図るという目的に適しているのかは、またその魅力とは一寸違った問題なのではないかという気がする。
成る程、立て続けに孔子や『論語』の悪口めいた事を書き連ねてみたから、そのような誤解を受けたのやもしれないが、これは私の真意を甚だ掴み損ねていて、むしろ私は『論語』ほどに味わい深い古典というものを支那では他に見出し得ないのではないかとすら思っている位なのだ。
現代を最もよく把握し、最も正しい結論を得ようと思えば、論語で十分である、と言っても過言ではない。
(『論語に学ぶ』42頁)
日常いろいろの問題や現象にぶつかって、考える。考えると、ことごとく論語に書かれてある。
(『論語に学ぶ』62頁)
という安岡正篤氏の論語讃歌を額面通りに受け取る気にもなれないけれど、公田連太郎翁が生涯もっとも良く読まれた書物が『論語』であったというだけで、私のような翁の没後の門人を自任する人間には強く惹かれるところがある。
実際に読んでみると、例えば儒教のことを“孔孟の思想”などと云って、孔子と孟子は古くからワンセットのように扱われている節もあるけれど、饒舌と詭弁の鼻につく『孟子』は、『論語』の持つ深みには及ぶべくもないというのが、私の実感であると云って良い。
ただし、この“深み”というのは若干曲者で、分かったような分からないような独特な余韻が読後に残るという『論語』の特徴の一つが、この“深み”を感じさせるからくりの主要な部分でもあって、これが「分かったような」気になるのは、先人の半ば強引に附した注解の助けを借りて読むからだという事は胆に銘じておくべきだろう。
それくらいに、『論語』というのは一見簡単なようでいて、難解極まりない書物であり、学童に読ませて人格形成を図るという目的に適しているのかは、またその魅力とは一寸違った問題なのではないかという気がする。
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