論語本あれこれ
- 2020/06/28
- 13:01
先に書いたように『論語』というのは恐ろしく難解な書物であって、本来漢籍入門として扱えるようなシロモノではない。
もし、そのように扱うなら、それは東洋の思想に及ぼした影響の大きさという意味からであって、内容が平明で理解しやすい等という意味では断じてないのである。
公田連太郎先生は、生涯もっとも『論語』を読まれたというが、孔子という人間のイメージが掴めないという理由からどれだけ乞われても『論語』の講義は拒み続けられたと聞くし、白川静先生も、
『論語』の原典批判は、むつかしいしごとである。『論語』は容易に講義しうるものではない。格言集でも扱うように講釈するならば知らず、古典としての『論語』をよむことの困難さは、以上の二、三の例によっても、十分推測することができるはずである。
と云っている。
従って、「自分は『論語』を読んだ」等と言えるのは、余程の学問を有する人か、さもなくば支那の学問を全く知らない素人さんであるかのどちらかであろう。
私なども例に漏れず、『論語』を読みこなせるような能力を持たない俗人の一人であるから、所詮は数冊の意釈や訳解を覗き見た程度の読者に過ぎないが、大部分の読書人は庵主と似たり寄ったりな接し方しか出来ない筈で、その点では自身の拙い読書経験を開陳するのも、幾らかの参考にならぬ事もないかもしれない。
私が初めて『論語』の内容を通読したのは、講談社学術文庫の『新訳論語』を通してで、谷沢永一氏(1929~2011)の激賞により、其の存在を知らされた書物である。
穂積重遠(1883~1951)は、東大教授から最高裁判事、東宮大夫兼東宮侍従長を歴任したスーパーエリートで、もともと穂積家は庵主と同じ宇和島に源流を持つ家系であった。
著者は子供の頃、祖父である渋沢栄一(1840~1931)に貰った『ポケット論語』によって『論語』に目覚め、其の後祖父の計らいで、宇野哲人(1875~1974)を家庭教師として『論語』を教わったという筋金入りの『論語』読みである。
といっても、本書は学術的な内容ではなく、もともと自身や親類の子供たちなどを対象に、家庭教育としてなされた著者の論語指導を基礎とするもので、自身これを「家庭論語」であると言っているが、その為、非常に平明で読みやすい。
少し前まで入手困難な状況が続いていたが、最近は古書価も落ち着いて来た感がある。
金谷治(1920~2006)の岩波『論語』は、類書の中では恐らく戦後最も多くの読者を獲得した一冊であろう。
アマゾンのレビュー数を見ても他を圧倒している。
岩波文庫の『論語』は、それ以前は金谷の師である武内義雄(1886~1966)の訳業によって行われていた。
簡潔さが特徴で、『論語』入門としては、ここから入るのが良いのかもしれない。
宮崎市定(1901~1995)が1974年に上梓した『論語の新研究』の第三部「訳解篇」を文庫化したもので、谷沢永一は「初めて現代人の心臓の鼓動に合う、現代語訳の論語」と称賛した。
私見によって大胆に文字を改めた箇所が少なからずあり、現代語訳も従来の解釈に囚われずにかなり自由な意訳が試みられている。
著者が制度史の専門家である事もあって、経学者の立場からは殆ど黙殺に近い扱いを受けているが、谷沢氏らの熱心な宣伝によって、一般の読書人には広く読まれた。
朝日新聞社の中国古典選シリーズに収められた吉川幸次郎(1904~1980)の注解本は、其の後文庫化され、今は朝日選書に入っている。
これまで紹介したものに比べると解説が非常に詳しく、解釈も正統的。
初めて『論語』を読むという人にはとっつきにくい所があろうが、個人的に訓読の語調は本書が一番しっくり来るので、私との相性は良いようだが、他の人にも同じであるという保証は出来かねる。
他に、孔子その人を扱ったものとして、蒼流庵に架蔵されているのは、白川静の『孔子伝』(中公文庫)、金谷治の『孔子』(講談社学術文庫)、和辻哲郎の『孔子』(岩波文庫)あたりで、それぞれに教えられるところがあってどれが良いとも勧めかねるが、和辻本はさすがに其の筆力に感心させられた記憶がある。
私が読んだ『論語』関連本は、僅かに此の程度にしか過ぎず(あとは中公文庫の『論語の世界』くらい)、マニアのそれと比べれば何十分の一の量でしかないだろうが、これから『論語』を読んでみたいという人に少し位は参考になるところがあるかもしれない。
もし、そのように扱うなら、それは東洋の思想に及ぼした影響の大きさという意味からであって、内容が平明で理解しやすい等という意味では断じてないのである。
公田連太郎先生は、生涯もっとも『論語』を読まれたというが、孔子という人間のイメージが掴めないという理由からどれだけ乞われても『論語』の講義は拒み続けられたと聞くし、白川静先生も、
『論語』の原典批判は、むつかしいしごとである。『論語』は容易に講義しうるものではない。格言集でも扱うように講釈するならば知らず、古典としての『論語』をよむことの困難さは、以上の二、三の例によっても、十分推測することができるはずである。
『孔子伝』279頁
と云っている。
従って、「自分は『論語』を読んだ」等と言えるのは、余程の学問を有する人か、さもなくば支那の学問を全く知らない素人さんであるかのどちらかであろう。
私なども例に漏れず、『論語』を読みこなせるような能力を持たない俗人の一人であるから、所詮は数冊の意釈や訳解を覗き見た程度の読者に過ぎないが、大部分の読書人は庵主と似たり寄ったりな接し方しか出来ない筈で、その点では自身の拙い読書経験を開陳するのも、幾らかの参考にならぬ事もないかもしれない。
『新訳論語』穂積重遠著(講談社学術文庫/1981年刊)
私が初めて『論語』の内容を通読したのは、講談社学術文庫の『新訳論語』を通してで、谷沢永一氏(1929~2011)の激賞により、其の存在を知らされた書物である。
穂積重遠(1883~1951)は、東大教授から最高裁判事、東宮大夫兼東宮侍従長を歴任したスーパーエリートで、もともと穂積家は庵主と同じ宇和島に源流を持つ家系であった。
著者は子供の頃、祖父である渋沢栄一(1840~1931)に貰った『ポケット論語』によって『論語』に目覚め、其の後祖父の計らいで、宇野哲人(1875~1974)を家庭教師として『論語』を教わったという筋金入りの『論語』読みである。
といっても、本書は学術的な内容ではなく、もともと自身や親類の子供たちなどを対象に、家庭教育としてなされた著者の論語指導を基礎とするもので、自身これを「家庭論語」であると言っているが、その為、非常に平明で読みやすい。
少し前まで入手困難な状況が続いていたが、最近は古書価も落ち着いて来た感がある。
岩波『論語』(1963年初版)
金谷治(1920~2006)の岩波『論語』は、類書の中では恐らく戦後最も多くの読者を獲得した一冊であろう。
アマゾンのレビュー数を見ても他を圧倒している。
岩波文庫の『論語』は、それ以前は金谷の師である武内義雄(1886~1966)の訳業によって行われていた。
簡潔さが特徴で、『論語』入門としては、ここから入るのが良いのかもしれない。
『現代語訳論語』(岩波現代文庫/2000年刊)
宮崎市定(1901~1995)が1974年に上梓した『論語の新研究』の第三部「訳解篇」を文庫化したもので、谷沢永一は「初めて現代人の心臓の鼓動に合う、現代語訳の論語」と称賛した。
私見によって大胆に文字を改めた箇所が少なからずあり、現代語訳も従来の解釈に囚われずにかなり自由な意訳が試みられている。
著者が制度史の専門家である事もあって、経学者の立場からは殆ど黙殺に近い扱いを受けているが、谷沢氏らの熱心な宣伝によって、一般の読書人には広く読まれた。
吉川『論語』
朝日新聞社の中国古典選シリーズに収められた吉川幸次郎(1904~1980)の注解本は、其の後文庫化され、今は朝日選書に入っている。
これまで紹介したものに比べると解説が非常に詳しく、解釈も正統的。
初めて『論語』を読むという人にはとっつきにくい所があろうが、個人的に訓読の語調は本書が一番しっくり来るので、私との相性は良いようだが、他の人にも同じであるという保証は出来かねる。
他に、孔子その人を扱ったものとして、蒼流庵に架蔵されているのは、白川静の『孔子伝』(中公文庫)、金谷治の『孔子』(講談社学術文庫)、和辻哲郎の『孔子』(岩波文庫)あたりで、それぞれに教えられるところがあってどれが良いとも勧めかねるが、和辻本はさすがに其の筆力に感心させられた記憶がある。
私が読んだ『論語』関連本は、僅かに此の程度にしか過ぎず(あとは中公文庫の『論語の世界』くらい)、マニアのそれと比べれば何十分の一の量でしかないだろうが、これから『論語』を読んでみたいという人に少し位は参考になるところがあるかもしれない。
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