使乎使乎
- 2020/07/01
- 18:55
『論語』は、孔子と弟子たちとの印象的な問答の記録によって構成されて、いずれもが味わい深い独特なる魅力を持っているのだが、憲問第十四に見えている孔子が蘧伯玉の使者に関心するところなど、私の好きな一節である。
蘧伯玉、人を孔子に使いす。
孔子、之に座を与えて問ふて曰く、夫子何をか為す。
対へて曰く、夫子は其の過ちを寡くせんと欲して未だ能はざるなり。
使者出づ。
子曰く、使なるかな、使なるかな。
(蘧伯玉が孔子の許へ使者を出した。
孔子は使者を座につかせて問うた。
「夫子(蘧伯玉先生)は、どうしておられますか」。
答えて言う、「先生は自分の過の少からんことを欲して未だ出来ないでおります」。
使者が退出すると、孔子が言われた。
「立派な使者だね、立派な使者だね」)
『論語』の好きな一節をと言われて、こんなのを挙げる人間もそう居ないと思うが、私は何故か此の他愛無い問答に筆舌に尽くしがたい魅力を感じるのである。
ただ、これは安岡正篤氏の『論語に学ぶ』235頁の訳にのみ言える事で、他に様々な訳本を覗き見たものの、不思議と一向に魅かれるものを感じない。
こうしてみると、それほどのものとは思われないような箇所でも、庵主未見の訳本を通してなら、全く違った一節に見えて来るものもないとは言えず、出来るだけ多くの訳本に当たってみるのが良いようにも思う。
もっとも、これは何も『論語』に限った話ではない筈だが。
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