ようこはよいこ?
- 2020/07/07
- 18:11
歴史というのは、常に勝者の手によって著される為に、敗者の側が悪し様に描かれるのは避けがたいが、あまりに酷くなると時に実際の史実とはかけ離れたものになるという危険性を持っている。
正確に言うなら、歴史というのは元来体制の正統性を担保する為に書かれたのが最初であって、よく言われるような客観的な歴史であるとか科学的な歴史学というのが本来は虚構に過ぎないのだ。
もっとも、執筆者によって覆われた側面に光を当てる事が出来るのもまた歴史家以外にはあり得ず、例えば、かつて腐敗政治の見本のように言われていた田沼意次像も、松平定信側によって作られた虚像である事は、最近ではよく知られるようになって来た。
同様の視点に立てば、善なる孔子に対して悪玉の代表のような扱いを受けている陽虎(陽貨)にしても、本当にそうであったのかどうか。
『史記』孔子世家には、孔子の亡命中、陽虎に容貌が似ていた為に、匡で災厄に遭った事が記されているが、どうも、単に容貌が似ていたというのではなくて、孔子自身が陽虎と大同小異の人物であった可能性すら見て取れるのである。
白川静氏の『孔子伝』によれば、孔子との問答における韻語や卜筮をよくしたことからみると、陽虎は師儒の一人であったのかも知れず、『孟子』滕文公下に「富を為せば仁ならず。仁を為せば富まず」など孔子の口から洩れそうな格言が陽虎の言として引かれているのも、そのためであろうという。
孔子がなぜ陽虎を避けたのか、その理由はこれでほぼ推測することができよう。孔子の当時、孔子のような生きかたをしようとした人物が、他にもいたのである。孔子のように高い理想主義を掲げることはなかったにせよ、生きかたは同じであった。古典の教養を持ち、門下をもち、世族政治に挑戦して政権を奪取し、敗るれば亡命して盗とよばれ、どこを祖国とするでもない。孔子の第二の亡命中、陽虎は北方にあって活躍し、孔子は南方で定居の地を求めていた。いわば競争相手である。その陽虎が魯で専制を成就したのである。孔子は魯にとどまりうるはずはない。『列子』「楊朱篇」には、「孔子、屈を季氏に受け、陽虎に逐はる」と明言している。これで孔子の斉への亡命の理由、及びその時期は明らかとなるであろう。しかし二年後、こんどはその陽虎が斉へ亡命してきた。孔子は斉を去らなければならないし、また魯に帰りうることになった。それで斉への亡命を、私は前五〇五年より前五〇二年の間におく。孔子四十八歳より五十一歳までの間である。景公はときにおそらく六十歳前後であろう。これで話はすべて合うのである。陽虎の対立者として位置づけられた孔子は、陽虎の亡命ののち、当然、魯の上下から注目を浴びる存在となった。しかし孔子がいくらか得意であった時期は、ものの三年もつづかなかった。孔子はなぜ失敗したのであろう。それは孔子が、革命者ではあっても、革命家ではなかったからである、と私は思う。孔子には陽虎のような、政治的手腕はなかったのである。
(『孔子伝』37~38頁)
とあるのは、恐らくは穿った見方であるに違いない。
一つ歯車が狂っていたとしたら、我々は儒家の経典中に、偉大なる聖人陽虎先生に対する悪しき存在として描かれた孔子を見る事になったのかもしれない等と想像するのも、楽しいものだ。
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