衆、允とす。
- 2020/09/04
- 18:11
『漢書芸文志』に「易これが原となる」と記述されるように、漢代以降『易』の思想が諸々の東洋文化の深部にまで食い込むが如き様相を呈する事になった結果、我々は知らず知らずのうちに『易』を来源とする思想や言葉に接するようになっているが、本来占筮書に過ぎないものがかかる現象を惹起せしめた例は古今東西他に類を見ないのではなかろうか。
別段支那の古典に対して深い造形を持たない極く普通の人々でさえ、“虎視眈々”とか“君子豹変”といった易辞由来の四字熟語を知らない人は稀であろうし、元号や天皇の諡号にも易辞から採られたものの少なくない事は既に見た通りである。
天皇に限らず、自らの号に易辞を用いたものは儒者になら幾らでも見出せるが、比較的新しいところでは、中華民国の初代総統である蒋介石(1887~ 1975)の“介石”が雷地豫六二の“石に介す”を出典とする事はよく知られている。
そして、先日憲政史上最長の総理在任日数という記録を打ち立てた我らが安倍晋三サンの“晋三”もまた同じく易を意識して付けられた名に違いなかろう。
晋三というのは別段特異な名とは言えないけれど、彼が政治家一族の出身である事を考える時、やはり此の人もまた生まれながらに政治家となるべく運命づけられた境遇にあった事が命名に表れているようで面白い(安岡正篤の葬儀委員長は祖父の岸信介が務めていて此の辺りが怪しいように思うがどうだろう)。
読者諸賢には今更だろうけれど、晋三は火地晋六三を云ったもので、爻辞に“衆(しゅう)允(まこと)とす”とあるのは、如何にも政治家の名として相応しいし、象伝の“志上り行けば也”というのも総理を目指せというメッセージが込められていると感じる。
また、卦辞に“康侯用錫馬蕃庶晝日三接”とあるのも同様であろう。
かかる名を持つ人物が、桂太郎をも佐藤栄作をも打ち破って我が国総理在任日数の大記録を打ち立てたのは如何にも易の面目躍如といったところか。
しかし、此の爻も観方を少し変えると、一般には凶兆多き三の位置、不中不正の爻であり、本来悔の有るべきところ、下坤の最も上に在って柔順なること至極たる故に衆皆其の志をまこととして信ずると解する説に従えば、これは平時には良くてもコロナ禍という有事に在っては不中不正の悪い面が強調されると観る事も出来る。
火地晋には地上に離火の戦が行われる戦争の象があるが、六三が未だ内卦の坤地における位置と考えれば、晋三サンは本来平時にあるべき宰相ではなかったか。
また、別の観方をすれば、常に民衆がまことを信じ続けてくれる筈はないし、易に窮まれば則ち変ずる変易の義ある以上、もはや安倍サンの内閣はとっくに火地晋から明地下に没した地火明夷へと移ってしまっていたと考えても良いかもしれない。
火地晋の君位たる六五には天地否が伏しているが、その五爻の辞には「其れ亡びなん、其れ亡びなん、苞桑に繫がる」と危ぶみ懼れる辞が繋けられて、易がかかる態度を是とする事は繋辞伝に特に強調されているが、安倍サンの内閣には特に其の後期に慢心や驕りが目に付いて、戒慎恐懼の乏しかった事は誰の目にも明らかであった。
ところで、8月25日に三日後の記者会見が報じられた時、すぐに「退陣表明するや否や」で筮したところ、水地比上六を得て、これはまず間違いなく退陣だなと思った。
上六の辞「首无し」の「首」とは首相の「首」であり、それが「无し」であるから、首相でなくなる=退陣表明と読めるからである。
また、卦辞に「寧んぜずして方く来る。後るる夫は凶」とあるが、爻で言えば、六三と上六が「後るる夫」であり、殊に上六は卦の窮まった位置にあって宜しくない。
これを実事に重ねてみれば、君位の五爻の時を過ぎて既に上爻の位置にあり、しかも小象伝に「終わる所无きなり」とあるのは、記録更新という瑣事に拘って晩節を汚したものとも読めるのである。
勿論、会見で安倍サン自らが述べたように、審判は歴史に委ねられるべきもので、同時代人には所詮其の真価は判らぬものだし、長らくアメリカ一辺倒の売国奴として在任中は評判の宜しくなかった吉田茂など、「もはや戦後ではな」くなってしまえば、復興の大恩人として真逆の評価を受ける様になった訳で、安倍サンの正確な評価も未来に行われるべきものに違いないけれど、同時代に私が易を基準に垣間見た安倍サンの内閣というのは、大体において以上のようなものだったのではないかという気がする。
別段支那の古典に対して深い造形を持たない極く普通の人々でさえ、“虎視眈々”とか“君子豹変”といった易辞由来の四字熟語を知らない人は稀であろうし、元号や天皇の諡号にも易辞から採られたものの少なくない事は既に見た通りである。
天皇に限らず、自らの号に易辞を用いたものは儒者になら幾らでも見出せるが、比較的新しいところでは、中華民国の初代総統である蒋介石(1887~ 1975)の“介石”が雷地豫六二の“石に介す”を出典とする事はよく知られている。
そして、先日憲政史上最長の総理在任日数という記録を打ち立てた我らが安倍晋三サンの“晋三”もまた同じく易を意識して付けられた名に違いなかろう。
晋三というのは別段特異な名とは言えないけれど、彼が政治家一族の出身である事を考える時、やはり此の人もまた生まれながらに政治家となるべく運命づけられた境遇にあった事が命名に表れているようで面白い(安岡正篤の葬儀委員長は祖父の岸信介が務めていて此の辺りが怪しいように思うがどうだろう)。
読者諸賢には今更だろうけれど、晋三は火地晋六三を云ったもので、爻辞に“衆(しゅう)允(まこと)とす”とあるのは、如何にも政治家の名として相応しいし、象伝の“志上り行けば也”というのも総理を目指せというメッセージが込められていると感じる。
また、卦辞に“康侯用錫馬蕃庶晝日三接”とあるのも同様であろう。
かかる名を持つ人物が、桂太郎をも佐藤栄作をも打ち破って我が国総理在任日数の大記録を打ち立てたのは如何にも易の面目躍如といったところか。
しかし、此の爻も観方を少し変えると、一般には凶兆多き三の位置、不中不正の爻であり、本来悔の有るべきところ、下坤の最も上に在って柔順なること至極たる故に衆皆其の志をまこととして信ずると解する説に従えば、これは平時には良くてもコロナ禍という有事に在っては不中不正の悪い面が強調されると観る事も出来る。
火地晋には地上に離火の戦が行われる戦争の象があるが、六三が未だ内卦の坤地における位置と考えれば、晋三サンは本来平時にあるべき宰相ではなかったか。
また、別の観方をすれば、常に民衆がまことを信じ続けてくれる筈はないし、易に窮まれば則ち変ずる変易の義ある以上、もはや安倍サンの内閣はとっくに火地晋から明地下に没した地火明夷へと移ってしまっていたと考えても良いかもしれない。
火地晋の君位たる六五には天地否が伏しているが、その五爻の辞には「其れ亡びなん、其れ亡びなん、苞桑に繫がる」と危ぶみ懼れる辞が繋けられて、易がかかる態度を是とする事は繋辞伝に特に強調されているが、安倍サンの内閣には特に其の後期に慢心や驕りが目に付いて、戒慎恐懼の乏しかった事は誰の目にも明らかであった。
ところで、8月25日に三日後の記者会見が報じられた時、すぐに「退陣表明するや否や」で筮したところ、水地比上六を得て、これはまず間違いなく退陣だなと思った。
上六の辞「首无し」の「首」とは首相の「首」であり、それが「无し」であるから、首相でなくなる=退陣表明と読めるからである。
また、卦辞に「寧んぜずして方く来る。後るる夫は凶」とあるが、爻で言えば、六三と上六が「後るる夫」であり、殊に上六は卦の窮まった位置にあって宜しくない。
これを実事に重ねてみれば、君位の五爻の時を過ぎて既に上爻の位置にあり、しかも小象伝に「終わる所无きなり」とあるのは、記録更新という瑣事に拘って晩節を汚したものとも読めるのである。
勿論、会見で安倍サン自らが述べたように、審判は歴史に委ねられるべきもので、同時代人には所詮其の真価は判らぬものだし、長らくアメリカ一辺倒の売国奴として在任中は評判の宜しくなかった吉田茂など、「もはや戦後ではな」くなってしまえば、復興の大恩人として真逆の評価を受ける様になった訳で、安倍サンの正確な評価も未来に行われるべきものに違いないけれど、同時代に私が易を基準に垣間見た安倍サンの内閣というのは、大体において以上のようなものだったのではないかという気がする。
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