姓名判断に対する不信①
- 2020/09/07
- 19:25
私の東洋医学の師は戦時中に熊崎健翁に学んでいるから、私にしてみれば熊崎健翁は大先生という事になる訳だが、今もって姓名判断には興味を持てずに居るし、正直信用もしていない。
師も熊崎式姓名学を継承しておられたから、随分名付け親にもなっておられたらしいが、それが私の知る限り、あまり開運に繋がったようにも思われないから、猶更其の不信が募るのであろう。
もっとも、全てを追跡調査した訳ではないし、たまたま私の知る幾つかが失敗例なのかも知れないけれど、私は其のロジックにそもそも受け入れがたいものを感じていて、端から姓名学というものを疑っているのである。
私は門外漢だから其の理解に幾らか誤りあるを避けられぬかも知れないが、そもそも夫々の流派(熊崎式は最も良く知られた代表的なものであるに過ぎず、姓名判断=熊崎式でない事くらいは幾ら門外漢とはいえ私でも知っている)で、画数の数え方から吉凶の判断に至るまで考え方がてんでバラバラで、同じ名前が時に大吉にも大凶にも解釈されるというのが気に入らない。
易に異卦同占や同卦異占があるように、姓名学も生年月日や其の他の要素を加味して同じ名前でも判断が異なって来るのだという立場もあって、それはそれで判らぬでもないけれど、姓名判断はやはり画数が基本になっているのだから、そこは数の神秘性で押し通してもらわないと何とでも言えるような気がするのは私が所詮は素人である事による文字通りの素人考えに過ぎぬのだろうか。
漢字の持つ“数”ではなく、“音”が肝だとする流派にしても、それぞれが銘々バラバラな主張をしているのは大同小異で、結局どれも信用ならないものに見えて来るのだが、そういえば似たようなところがあったと1999年のノストラダムス騒動が思い返される。
しかし、考えてみると面白いのが、普段占いなど大して信じていない癖に、いざ自分に子や孫が出来ると姓名判断の本片手に首っ引きで名づけに没頭する人も少なくないらしく、画数に全く注意されずに付けられた名前などむしろ稀なのではないかという気さえする。
もっとも昨今の若い親御さんはどうだか判らないけれど、いずれにせよ最も多くの人が被鑑定者ではなく鑑定者になるという点で、実占もとい実践者の最も多い占術は姓名判断のように思われ、その最も人口に膾炙した占術が最も私には信の置けないものであるというのは面白い事だ。
師も熊崎式姓名学を継承しておられたから、随分名付け親にもなっておられたらしいが、それが私の知る限り、あまり開運に繋がったようにも思われないから、猶更其の不信が募るのであろう。
もっとも、全てを追跡調査した訳ではないし、たまたま私の知る幾つかが失敗例なのかも知れないけれど、私は其のロジックにそもそも受け入れがたいものを感じていて、端から姓名学というものを疑っているのである。
私は門外漢だから其の理解に幾らか誤りあるを避けられぬかも知れないが、そもそも夫々の流派(熊崎式は最も良く知られた代表的なものであるに過ぎず、姓名判断=熊崎式でない事くらいは幾ら門外漢とはいえ私でも知っている)で、画数の数え方から吉凶の判断に至るまで考え方がてんでバラバラで、同じ名前が時に大吉にも大凶にも解釈されるというのが気に入らない。
易に異卦同占や同卦異占があるように、姓名学も生年月日や其の他の要素を加味して同じ名前でも判断が異なって来るのだという立場もあって、それはそれで判らぬでもないけれど、姓名判断はやはり画数が基本になっているのだから、そこは数の神秘性で押し通してもらわないと何とでも言えるような気がするのは私が所詮は素人である事による文字通りの素人考えに過ぎぬのだろうか。
漢字の持つ“数”ではなく、“音”が肝だとする流派にしても、それぞれが銘々バラバラな主張をしているのは大同小異で、結局どれも信用ならないものに見えて来るのだが、そういえば似たようなところがあったと1999年のノストラダムス騒動が思い返される。
しかし、考えてみると面白いのが、普段占いなど大して信じていない癖に、いざ自分に子や孫が出来ると姓名判断の本片手に首っ引きで名づけに没頭する人も少なくないらしく、画数に全く注意されずに付けられた名前などむしろ稀なのではないかという気さえする。
もっとも昨今の若い親御さんはどうだか判らないけれど、いずれにせよ最も多くの人が被鑑定者ではなく鑑定者になるという点で、実占もとい実践者の最も多い占術は姓名判断のように思われ、その最も人口に膾炙した占術が最も私には信の置けないものであるというのは面白い事だ。
スポンサーサイト