姓名判断に対する不信②
- 2020/09/10
- 18:16
所謂姓名学では、運命を支配する諸々の要素中、姓名を最も重要視して、あたかもそれが一生の運命を支配すると言わんばかりであるが、私がまず疑問に感ずるのは、そもそも姓名は後天的な要素で、名付けを行った人間の人為的な所産であり、誕生時にはDNA情報含め、諸条件の大部分が変更不能である一人の人間が誕生後の名付けによって絶対的に運命を決定されるのかという点である。
柄にもなくスピリチュアルな妄言を吐いてみるけれど、人間は輪廻を繰り返して、新たに誕生する時も本人の持つ業に合わせて親も環境も選んで生まれて来るのだという。
もし、そうであるなら、生まれた時点で其の人の運命というのは、相当に路線がはっきりと決められている訳で、姓は兎も角として後から如何様にも決められる名がそこまでの影響力を及ぼして来るというのは少なくとも私等には受け入れがたいところがある。
四柱推命等の命占では、人間の運命は最初から決まっていて生年月日を解析する事でそれを予め知る事が出来ると考えるが、或いはどのような名が付けられるのかまで計算に入っているのだとすれば、コウノトリの配慮は恐ろしく神がかった精度と言う他ないようだ。
そういえば、其の昔自分の子供を「悪魔」と名付けて役所に届け出たところ、子供の福祉を害する親権の濫用に当たるとして受理されず、裁判所にまで持ち込まれたという醜怪な事件があったけれど、これなどは命名ではなく、かかる異常な両親のもとに生まれたという事の方が遥かに当人の運命に影響を及ぼす筈で、もはや悪魔だろうが天使だろうが大した違いは無さそうな気がする(ウィキペディアによると、父親は其の後二度覚醒剤取締法違反で逮捕されているそうだが、ありそうな話である)。
ただし、自他共に其の名を以て個人を認識するという訳だから、それが運命に全く影響を与えぬとまで断じるつもりは毛頭ない。
人間の運命という複雑系における一つの変数として作用する事を認めるに吝かではないものの、それが最大の影響力を及ぼすものであるという事を否定したいだけのことである(少なくとも印相などよりは姓名の方が強い影響力を持ちそうな気がする)。
ところで、流派毎にバラバラな主張があって互いを罵りあっているという点で、私は四柱推命とも距離を置いているのだが、青木良仁先生の神業のような占星術に接する度、やはり生年月日には運命に対する重大な影響力ある事を認めざるを得ない(ちなみに青木先生は姓名学にも一定の理解を示して私のような否定派ではないようだ)。
柄にもなくスピリチュアルな妄言を吐いてみるけれど、人間は輪廻を繰り返して、新たに誕生する時も本人の持つ業に合わせて親も環境も選んで生まれて来るのだという。
もし、そうであるなら、生まれた時点で其の人の運命というのは、相当に路線がはっきりと決められている訳で、姓は兎も角として後から如何様にも決められる名がそこまでの影響力を及ぼして来るというのは少なくとも私等には受け入れがたいところがある。
四柱推命等の命占では、人間の運命は最初から決まっていて生年月日を解析する事でそれを予め知る事が出来ると考えるが、或いはどのような名が付けられるのかまで計算に入っているのだとすれば、コウノトリの配慮は恐ろしく神がかった精度と言う他ないようだ。
そういえば、其の昔自分の子供を「悪魔」と名付けて役所に届け出たところ、子供の福祉を害する親権の濫用に当たるとして受理されず、裁判所にまで持ち込まれたという醜怪な事件があったけれど、これなどは命名ではなく、かかる異常な両親のもとに生まれたという事の方が遥かに当人の運命に影響を及ぼす筈で、もはや悪魔だろうが天使だろうが大した違いは無さそうな気がする(ウィキペディアによると、父親は其の後二度覚醒剤取締法違反で逮捕されているそうだが、ありそうな話である)。
ただし、自他共に其の名を以て個人を認識するという訳だから、それが運命に全く影響を与えぬとまで断じるつもりは毛頭ない。
人間の運命という複雑系における一つの変数として作用する事を認めるに吝かではないものの、それが最大の影響力を及ぼすものであるという事を否定したいだけのことである(少なくとも印相などよりは姓名の方が強い影響力を持ちそうな気がする)。
ところで、流派毎にバラバラな主張があって互いを罵りあっているという点で、私は四柱推命とも距離を置いているのだが、青木良仁先生の神業のような占星術に接する度、やはり生年月日には運命に対する重大な影響力ある事を認めざるを得ない(ちなみに青木先生は姓名学にも一定の理解を示して私のような否定派ではないようだ)。
スポンサーサイト