姓名判断に対する態度
- 2020/09/13
- 10:28
管見の限り、姓名判断に対して取るべき最も穏当な態度の表明と言えるのは、加藤大岳氏が『易占法秘解』の中で述べておられるそれであると思う。
該当箇所を引用、読者諸賢の参考に供させて頂く。
姓名が良ければ健康になるというのは、運命學としての姓名學の一つの『理想』である。
如何なる流派の運命學も、此の『理想』を目標として打建てられてゐる。これは姓名學ばかりでなく、易でも家相でも同様である。――― 而して、右の『理想』を具現するために、正しい理論と精密な實地観察とを基礎として作られた運命學が、正しい運命學なのである。また、同じ運命學を用ゐても、其の『理想』とする目標を單なる理想として終らせずに、理想により近き効果を擧げる運命家が傑れた運命家なのである。
右の如く、良名と健康といふことは、絶對的な事實を以て裏書きされた眞理ではなく、一つの運命學的理想であるから、「名前が良ければ健康になる」といふのは、實際には其の通りの事實が現れるのではない。此の理想を目ざして少しでも健康に進みたい念願・努力の現れとして良名を用ゐるというのが、正しい姓名學実践である。此の點に関する正しい認識を持たずに行われる運命家の指導は、好き結果よりも寧ろ悪しき結果を齎らすに止まるであろう。
家相でも、易でも、同じことである。誰でも良い家相の家に住めば煩悶が解消し安心を得、或ひは健康者となり富者となり名望家になるのでもなければ、易を見て貰つたからとて、誰でも惱みが消えて喜びが訪れ、丈夫になり金持になり貴人となるのでもない。その方向に近付くために、良い家相を求め易を用ゐるというのが正しいのである。
叙上の如き理解に於て斯術が用ゐられるならば、良名に改めた病者が遂に健康に復さずに終つても、また良き家相の家の住人に或る不幸が起つても、これらの人々に良名を授け、良家相を教へた運命家の全き敗北ではなく、開運指導の努力が、遂に環境の非を全く克服し得なかつたものとして、寧ろ悲しき努力に敬意を表してよいのである。その功は讃え得ずとも其の勞を多とすべきである。――― 如上の私見は、運命家の眞劍にして無私な精神に於て爲された場合を指して居ることは云ふ迄もない。
姓名が良ければ健康になる、家相が良ければ良縁に惠まれる、易を知れば運が開ける ――― といふことが『理想』でなくて、絶對的の事實であるのならば、姓名學家の家族が不治の難病を患ひ、家相學家の子女が婚縁に破れ、易學家が貧乏に苦しんでゐたとすれば、―― 斯かる實事は、読者の普く見聞せられるところである ――― 姓名も家相も易もインチキ極まるものであると云はねばならない。
然し、運命學家自身及び其の周圍が如何に、不健康であり、縁談に不遇であり、金錢が裕かでなくとも、その惠まれない環境を基礎として、よき努力が斯術を用ゐて拂はれて居るならば、われわれは其の人を正しい運命家と見做すべきは勿論、運命學術そのものの價値をも疑ふには當らないのである。――― それ故、陋巷の廢屋に筮をひさいで居る運命家が未熟とも決つてもいなければ、樓閣に住んで豪奢を誇つている運命家が達人とも決つていないのであるが、然し、自己の子女が病弱破縁に陥り自らも貧困薄命である運命家が、此の運命學を用いれば、誰でも健康になり、良縁を得、金持になるなどと揚言誇示してゐるならば、われわれは其の無反省に軽蔑を感ずるよりも、餘りの愚かさに憐憫の涙さへ催すであろう。――― 而して、斯かる滑稽なる運命家の存在も、読者は屡々見聞される處であろう。
運命家が人を救ひ導くのではなく、人を救ひ導くためのよき努力として運命學が用ゐられる。――― 運命學に對する此の理解が未だ把握されぬ初學の士は、斯術を用ゐて猶且つ人の死を救ひ得ず、事態の覆滅を防ぎ得なかつた場合、乃至は斯術の實踐家自身が必ずしも全き幸福者でない事實を見聞した場合に、斯學斯術の効能を疑ふのみならず、斯の學術そのものに対しても疑いを感ずることが多いであろう。それらの諸士に對して、此の拙文が多少なりとも幸する處があれば筆者として眞に本望である。
該当箇所を引用、読者諸賢の参考に供させて頂く。
姓名が良ければ健康になるというのは、運命學としての姓名學の一つの『理想』である。
如何なる流派の運命學も、此の『理想』を目標として打建てられてゐる。これは姓名學ばかりでなく、易でも家相でも同様である。――― 而して、右の『理想』を具現するために、正しい理論と精密な實地観察とを基礎として作られた運命學が、正しい運命學なのである。また、同じ運命學を用ゐても、其の『理想』とする目標を單なる理想として終らせずに、理想により近き効果を擧げる運命家が傑れた運命家なのである。
右の如く、良名と健康といふことは、絶對的な事實を以て裏書きされた眞理ではなく、一つの運命學的理想であるから、「名前が良ければ健康になる」といふのは、實際には其の通りの事實が現れるのではない。此の理想を目ざして少しでも健康に進みたい念願・努力の現れとして良名を用ゐるというのが、正しい姓名學実践である。此の點に関する正しい認識を持たずに行われる運命家の指導は、好き結果よりも寧ろ悪しき結果を齎らすに止まるであろう。
家相でも、易でも、同じことである。誰でも良い家相の家に住めば煩悶が解消し安心を得、或ひは健康者となり富者となり名望家になるのでもなければ、易を見て貰つたからとて、誰でも惱みが消えて喜びが訪れ、丈夫になり金持になり貴人となるのでもない。その方向に近付くために、良い家相を求め易を用ゐるというのが正しいのである。
叙上の如き理解に於て斯術が用ゐられるならば、良名に改めた病者が遂に健康に復さずに終つても、また良き家相の家の住人に或る不幸が起つても、これらの人々に良名を授け、良家相を教へた運命家の全き敗北ではなく、開運指導の努力が、遂に環境の非を全く克服し得なかつたものとして、寧ろ悲しき努力に敬意を表してよいのである。その功は讃え得ずとも其の勞を多とすべきである。――― 如上の私見は、運命家の眞劍にして無私な精神に於て爲された場合を指して居ることは云ふ迄もない。
~~~~~~~~~中略~~~~~~~~~
姓名が良ければ健康になる、家相が良ければ良縁に惠まれる、易を知れば運が開ける ――― といふことが『理想』でなくて、絶對的の事實であるのならば、姓名學家の家族が不治の難病を患ひ、家相學家の子女が婚縁に破れ、易學家が貧乏に苦しんでゐたとすれば、―― 斯かる實事は、読者の普く見聞せられるところである ――― 姓名も家相も易もインチキ極まるものであると云はねばならない。
然し、運命學家自身及び其の周圍が如何に、不健康であり、縁談に不遇であり、金錢が裕かでなくとも、その惠まれない環境を基礎として、よき努力が斯術を用ゐて拂はれて居るならば、われわれは其の人を正しい運命家と見做すべきは勿論、運命學術そのものの價値をも疑ふには當らないのである。――― それ故、陋巷の廢屋に筮をひさいで居る運命家が未熟とも決つてもいなければ、樓閣に住んで豪奢を誇つている運命家が達人とも決つていないのであるが、然し、自己の子女が病弱破縁に陥り自らも貧困薄命である運命家が、此の運命學を用いれば、誰でも健康になり、良縁を得、金持になるなどと揚言誇示してゐるならば、われわれは其の無反省に軽蔑を感ずるよりも、餘りの愚かさに憐憫の涙さへ催すであろう。――― 而して、斯かる滑稽なる運命家の存在も、読者は屡々見聞される處であろう。
運命家が人を救ひ導くのではなく、人を救ひ導くためのよき努力として運命學が用ゐられる。――― 運命學に對する此の理解が未だ把握されぬ初學の士は、斯術を用ゐて猶且つ人の死を救ひ得ず、事態の覆滅を防ぎ得なかつた場合、乃至は斯術の實踐家自身が必ずしも全き幸福者でない事實を見聞した場合に、斯學斯術の効能を疑ふのみならず、斯の學術そのものに対しても疑いを感ずることが多いであろう。それらの諸士に對して、此の拙文が多少なりとも幸する處があれば筆者として眞に本望である。
(易占法秘解・10~12頁)
スポンサーサイト