周易による姓名判断②
- 2020/09/22
- 18:04
正直なところ、画数に依拠した姓名判断ということ自体が気に入らない自分としては、姓名の画数を易卦に変換する紀藤式も今一つピンと来こない。
そもそも、名前には込められた意味が一瞥して明瞭なるものもあって、例えば、安倍晋三サンはやはり火地晋六三の意味を見るべきだと思うが、画数を卦に直したところで火地晋にはならないし、昔『易学研究』に投稿して水沢節二の筆名を用いた人が居るけれど、この筆名にしても画数では本来強調されるべき易の卦爻とは合致しないのである。
だから、結局は単純に候補名について一つずつ占筮を行って得卦を対照するというシンプルなやり方が最も理にかなった名付けなのではないかという気がする。
紀藤門の高弟で私が直接の面識を持つ最高の名人は今年九十八歳を迎えられた御法川もも代先生ではないかと思っているが(なにせ誤占の経験ゼロという位だから)、先生も名付けに関しては個別に立卦して判断する方法を採っておられた。
紀藤門と謂えど先生は六変筮のみを用いるという今どき珍しい占筮家なのだが、人格高潔にして多くの名付け依頼を受けて来られたと聞いている。
命名の際も当然六変筮という事で、以前その記録を少し見せてもらった事があるが、個人的には三変筮の単純な爻辞占を用いる方が判断がやり易いのではないかと思う。
私が画数など気にせず個別に卦を立てた方が良いと思う理由は幾つかあるのだが、姓名学の俗書片手にそれに引きずられて名を考えるよりは、やはりインスピレーションを大切にした方が良いというのが其の理由の第一である。
第二の理由は、従来の姓名学はどうも“時”の要素が抜け落ちがちのように感じられる点で、いくら字義や画数がよくても、今日“文蔵”さんや“吉右衛門”さん等という命名をされてはイジメっ子の陰惨なターゲットになること自明であるし、ブ女に“麗華”ちゃんなどと命名するのも同様だろう。
美男美女の掛け合わせでも突然変異の可能性は決して低くはないので、名前という後から容易に変更できないものは余程慎重になるべきではないか。
易占に最も信頼を置いている私は、易神ならこれらも全て織り込んだ上での吉凶が示されるものと楽天的に考えているので、今のところ名付けの依頼を受けた事は只の一度もないが、もし頼まれた時には、良いと思う名前を自由に考えてもらい、個別に立卦して判断したいと思っている。
そもそも、名前には込められた意味が一瞥して明瞭なるものもあって、例えば、安倍晋三サンはやはり火地晋六三の意味を見るべきだと思うが、画数を卦に直したところで火地晋にはならないし、昔『易学研究』に投稿して水沢節二の筆名を用いた人が居るけれど、この筆名にしても画数では本来強調されるべき易の卦爻とは合致しないのである。
だから、結局は単純に候補名について一つずつ占筮を行って得卦を対照するというシンプルなやり方が最も理にかなった名付けなのではないかという気がする。
紀藤門の高弟で私が直接の面識を持つ最高の名人は今年九十八歳を迎えられた御法川もも代先生ではないかと思っているが(なにせ誤占の経験ゼロという位だから)、先生も名付けに関しては個別に立卦して判断する方法を採っておられた。
紀藤門と謂えど先生は六変筮のみを用いるという今どき珍しい占筮家なのだが、人格高潔にして多くの名付け依頼を受けて来られたと聞いている。
命名の際も当然六変筮という事で、以前その記録を少し見せてもらった事があるが、個人的には三変筮の単純な爻辞占を用いる方が判断がやり易いのではないかと思う。
私が画数など気にせず個別に卦を立てた方が良いと思う理由は幾つかあるのだが、姓名学の俗書片手にそれに引きずられて名を考えるよりは、やはりインスピレーションを大切にした方が良いというのが其の理由の第一である。
第二の理由は、従来の姓名学はどうも“時”の要素が抜け落ちがちのように感じられる点で、いくら字義や画数がよくても、今日“文蔵”さんや“吉右衛門”さん等という命名をされてはイジメっ子の陰惨なターゲットになること自明であるし、ブ女に“麗華”ちゃんなどと命名するのも同様だろう。
美男美女の掛け合わせでも突然変異の可能性は決して低くはないので、名前という後から容易に変更できないものは余程慎重になるべきではないか。
易占に最も信頼を置いている私は、易神ならこれらも全て織り込んだ上での吉凶が示されるものと楽天的に考えているので、今のところ名付けの依頼を受けた事は只の一度もないが、もし頼まれた時には、良いと思う名前を自由に考えてもらい、個別に立卦して判断したいと思っている。
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