『春秋左氏伝』に見える命名法五類
- 2020/09/28
- 18:09
『春秋左氏伝』桓公六年の条に、名付けの根拠として五種類の方法がある事が出ている。
九月丁卯の日(二十四日)に子同(後の荘公)が生まれた。
太子誕生の礼をもって誕生の儀式を行い、太子に接見するのに、牛・羊・豚のご馳走を供え、うらなって士を選んで太子を負わしめ、士の妻をうらない選んで乳母とした。
桓公は夫人文姜及び同姓の大夫の妻とともに太子に命名することになった。
そこで桓公は命名のしかたを大夫の申繻に下問すると、申繻は、
「命名には五つあります。信・義・象・仮・類がそれで、名をもって生まれてきたのが信であり、将来の繁栄を考えて立派な徳義の名をつけるのが義であり、生まれた子の容貌にちなんでつけるのが象であり、生まれた時の事物にちなんでつけるのが仮であり、父と関係ある事物にちなんでつけるのが類であります。諸侯の国名や官名や山川の名や病気や犠牲に用いる畜類や礼物として用いる器物・玉帛の名を取って命名することは致しません。周の人は生前の名をいみはばかって諱として神に仕え、生前の名は、その人がなくなると、いみはばかって用いないことにしております。だから国の名を用いて命名すると、その人名を改め、官名を用いると官名を改め、山川の名を用いると山川の名を改め、犠牲に用いる畜類の名を用いるとその畜類を祭りの犠牲に用いることをやめ、礼物に用いる器物・玉帛を用いると、それを礼物として用いることをやめるものです。晋の僖侯が司徒という官名をもって命名したので司徒を中軍と改名し、宋の武公が司空という官名をもって命名したので司空を司城と改名し、魯の先君の献公・武公が具・敖の山名をもって命名したので二山の名を改めております。こういうわけで、以上のごとき大事なものの名を取って命名してはなりません」とお答えした。
桓公は、「この子が生まれた日は私と同じ日であった」といって、「同」と命名した。
この記述が実際の問答の記録であるのかどうかはさておき、名付けというものの重みだけは容易に理解出来るのではないかと思う。
そういえば、『論語』の子路第十三に、「衛公に迎えられて政治をなさることになったら、先生はまず何をなさいますか?」と子路に問われて「必ずや名を正さんか」と孔子が答える場面がある。
当時キラキラネームが流行っていた訳でもなかろうし、ここでいう“名”は諱の事ではないが、庵主には不思議と印象深い箇所の一つだ。
九月丁卯の日(二十四日)に子同(後の荘公)が生まれた。
太子誕生の礼をもって誕生の儀式を行い、太子に接見するのに、牛・羊・豚のご馳走を供え、うらなって士を選んで太子を負わしめ、士の妻をうらない選んで乳母とした。
桓公は夫人文姜及び同姓の大夫の妻とともに太子に命名することになった。
そこで桓公は命名のしかたを大夫の申繻に下問すると、申繻は、
「命名には五つあります。信・義・象・仮・類がそれで、名をもって生まれてきたのが信であり、将来の繁栄を考えて立派な徳義の名をつけるのが義であり、生まれた子の容貌にちなんでつけるのが象であり、生まれた時の事物にちなんでつけるのが仮であり、父と関係ある事物にちなんでつけるのが類であります。諸侯の国名や官名や山川の名や病気や犠牲に用いる畜類や礼物として用いる器物・玉帛の名を取って命名することは致しません。周の人は生前の名をいみはばかって諱として神に仕え、生前の名は、その人がなくなると、いみはばかって用いないことにしております。だから国の名を用いて命名すると、その人名を改め、官名を用いると官名を改め、山川の名を用いると山川の名を改め、犠牲に用いる畜類の名を用いるとその畜類を祭りの犠牲に用いることをやめ、礼物に用いる器物・玉帛を用いると、それを礼物として用いることをやめるものです。晋の僖侯が司徒という官名をもって命名したので司徒を中軍と改名し、宋の武公が司空という官名をもって命名したので司空を司城と改名し、魯の先君の献公・武公が具・敖の山名をもって命名したので二山の名を改めております。こういうわけで、以上のごとき大事なものの名を取って命名してはなりません」とお答えした。
桓公は、「この子が生まれた日は私と同じ日であった」といって、「同」と命名した。
(鎌田正氏の訳文に拠った)
この記述が実際の問答の記録であるのかどうかはさておき、名付けというものの重みだけは容易に理解出来るのではないかと思う。
そういえば、『論語』の子路第十三に、「衛公に迎えられて政治をなさることになったら、先生はまず何をなさいますか?」と子路に問われて「必ずや名を正さんか」と孔子が答える場面がある。
当時キラキラネームが流行っていた訳でもなかろうし、ここでいう“名”は諱の事ではないが、庵主には不思議と印象深い箇所の一つだ。
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