『高島易断』を読む⑦
- 2020/11/26
- 18:46
江戸時代は周易による易占が盛んに行われていたように漠然と思われているフシがあるけれど、実際の内容はと言えば、白蛾にしろ真勢にしろ徹底した象占である事に加えて断易や梅花心易など周易から派生しつつも独自の発達を遂げた占法に由来する技法が混淆して用いられていて、少なくとも今日の易占家の殆どが常法としているが如き爻辞占は殆ど見つけられないようだ。
もっとも、内容を把握できる我が国最古の易占例である後醍醐天皇の帰還占は爻辞占であるし、以前ご紹介した新井白石の娘の縁談占なども朱子学者らしく七考占の原則に則り辞を以て解そうと努めてはいるけれど、やはりそれらは例外に属するものらしく、辞占が幅を利かせるようになるには呑象の登場を待たねばならなかった。
しかし、そんな中にあって、呑象以前にひと際著名なる辞占例がある。
言わずと知れた“佐久間象山馬上ニ殪ル”の占だ。
あまりに有名な易占例なので今更贅言を要しないと思うけれど、どうも調べてみると此の占例、必ずしも呑象以前のそれとは言いかねるところもあって、実は『高島易断』の沢天夬上六の項目に収載されているのが出典であるらしい(占例296/禮.p434~p436)。
外務書記官北澤正誠(1840~1901)より聞いた話として紹介されているのだが、この北澤という人、元松代藩士で象山の門弟だった人である。
しかし、此の著名な占例に私は以前より何か作り物めいた嘘臭さを感じていた。
『高島易断』は北澤の存命時に執筆されているから、北澤の名を借りて呑象が創作したという訳でもあるまいが、話の構造が同工異曲かと思われる程に朱子の引退占に酷似している事に加え、中川宮(1824~1891)に召されて庭で馬術を披露し、宮の称賛を博して酒杯を賜り感激、乗っていた馬の名を都路から王庭と改め、その帰途で暗殺されるという辺りなど如何にも芝居がかって見えるのである。
しかも此の時北澤は藩邸に在って中川宮のもとへは同行していないのだが、
先生感激シテ曰ク、臣本ト卑賤ヨリ出デ、殿下ノ寵偶ヲ忝クス。人生ノ栄誉、何事カ之ニ若カン。今ヤ貴庭ニ於テ、馬術ヲ演ジ、感賞ヲ蒙ル。因テ記念ノ為メ、都路ヲ改メテ王庭ト名ケント。拝謝シテ退ク。帰途木屋街ニ至ル。浪士左右ヨリ先生ヲ要シテ、之ヲ馬上ニ殪ス。
と丸で見て来たような記述になっているのも何だか胡散臭い。
後から居合わせた者に聞かされたのだと納得する事も出来なくはないけれど、むしろ私はそれを創作とまで断じる訳ではないにせよ、門下の亡き師を想い師の名を死後に高めんとして多少の尾鰭つきし事を想像するのである。
もっとも、内容を把握できる我が国最古の易占例である後醍醐天皇の帰還占は爻辞占であるし、以前ご紹介した新井白石の娘の縁談占なども朱子学者らしく七考占の原則に則り辞を以て解そうと努めてはいるけれど、やはりそれらは例外に属するものらしく、辞占が幅を利かせるようになるには呑象の登場を待たねばならなかった。
しかし、そんな中にあって、呑象以前にひと際著名なる辞占例がある。
言わずと知れた“佐久間象山馬上ニ殪ル”の占だ。
あまりに有名な易占例なので今更贅言を要しないと思うけれど、どうも調べてみると此の占例、必ずしも呑象以前のそれとは言いかねるところもあって、実は『高島易断』の沢天夬上六の項目に収載されているのが出典であるらしい(占例296/禮.p434~p436)。
外務書記官北澤正誠(1840~1901)より聞いた話として紹介されているのだが、この北澤という人、元松代藩士で象山の門弟だった人である。
しかし、此の著名な占例に私は以前より何か作り物めいた嘘臭さを感じていた。
『高島易断』は北澤の存命時に執筆されているから、北澤の名を借りて呑象が創作したという訳でもあるまいが、話の構造が同工異曲かと思われる程に朱子の引退占に酷似している事に加え、中川宮(1824~1891)に召されて庭で馬術を披露し、宮の称賛を博して酒杯を賜り感激、乗っていた馬の名を都路から王庭と改め、その帰途で暗殺されるという辺りなど如何にも芝居がかって見えるのである。
しかも此の時北澤は藩邸に在って中川宮のもとへは同行していないのだが、
先生感激シテ曰ク、臣本ト卑賤ヨリ出デ、殿下ノ寵偶ヲ忝クス。人生ノ栄誉、何事カ之ニ若カン。今ヤ貴庭ニ於テ、馬術ヲ演ジ、感賞ヲ蒙ル。因テ記念ノ為メ、都路ヲ改メテ王庭ト名ケント。拝謝シテ退ク。帰途木屋街ニ至ル。浪士左右ヨリ先生ヲ要シテ、之ヲ馬上ニ殪ス。
と丸で見て来たような記述になっているのも何だか胡散臭い。
後から居合わせた者に聞かされたのだと納得する事も出来なくはないけれど、むしろ私はそれを創作とまで断じる訳ではないにせよ、門下の亡き師を想い師の名を死後に高めんとして多少の尾鰭つきし事を想像するのである。
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