松永弾正のこと
- 2020/12/02
- 18:04
ごく普通の歴史好きの日本人に人気のある時代区分と言えば、昔から戦国時代および幕末維新と相場は決まっているけれど、平和を愛してやまない蒼流庵主人にとって此の血腥い二つの時代は全く興味を引かれないものである為、其の登場人物に関する知識は至って平凡で常識的な範疇を出るものは殆ど無いと言っていい。
我が蓍を手にした松永弾正(1510~1577)とて其の例外ではなく、三好長慶の元家臣で茶人としての顔も持っていたという位の漠然としたイメージが微かに脳内を浮遊しているのみなのである。
だから墓所のある京都の妙恵会総墓所は岡本一抱の絡みで恐らくは十回以上も足を運んでいるのに、どれが弾正の墓であるのか探すという事さえしていないのだ(流石に次回行った時は掃苔してみようと今は思っているけれど)。
しかし、松永弾正に易占をさせよう等というのは、さしたる考えがあっての事でもなかろうが、思えば最適な人選であったという気もする。
それは、易を嗜んだというのが完全な創作であるにせよ、全く易に無縁という訳ではないからだ。
曾孫に当たる松永尺五は、藤原惺窩(1561~1619)門の四天王に数えられた一人で、十八歳の若さで豊臣秀頼相手に『論語』を講じたという秀才であるが、朱子学を修めた人であるから筮儀に通暁していたのは間違いないし、その子昌易になると『周易秘箋』『周易程朱伝義注』といった易書を物しているのである。
かつて御紹介した木下順庵や安東省庵、室鳩巣、榊原篁洲、中村蘭林といった易儒たちは皆尺五の系譜に連なる儒者であって、其の先祖たる弾正の手に蓍を握らせたのは中々粋な事をしてくれたものだと言ってやりたくなる。
また、これも同様に偶然のしからしむるところに違いないけれど、ドラマでは弾正が易を立てていたのは堺の今井宗久(1520~1593)の処という設定になっていて、加えて堺産の素材を用いて堺人たる蒼流庵主人が製作した蓍にて立卦させるという辺り、何か見えざる手の働きさえ感じさせられるところがあると言っては言い過ぎか。
スポンサーサイト