『麒麟がくる』のくだんの場面で、陣内孝則扮する今井宗久に話しかけられた松永弾正が「んんーん」と応じるシーンが妙にかっこよかった。
後ろ向きというところがまた良かったような気がするが、自分も同じ状況になったら「んんーん」と応じてやろうと思っている。
が、作品のリアリティとしてはあれは甚だ頂けなかった。
揲筮というのは本来厳粛極まるものであって、だからこそ斎戒沐浴等という面倒な事を敢えてしてまで占者は筮に臨むのである。
仮にも茶人たる今井宗久が嫌がらせの意図でもあったならいざ知らず、その最中に声を掛ける等という不躾な真似をする筈がなかろう。
『易学研究』昭和41年8月号の「得卦の個殊性」(p37~p38)に面白い箇所があったのを思い出したので、転載させて頂くことにする。
満身これ自信の権化かと見えた熊崎健翁先生のような方でさえ、揲筮中に、遠くからであつても赤児の泣き声が耳に入ると、もう其の卦は駄目であると語って居られたことがありました。
私の場合は、熊崎先生のよりも更に神経的で、まわりに人の気配のあるときに立筮した卦には凭れかかれない不安があり、それで深夜に卦を起こすというような仕儀になつてしまいます。~~~~~~~~~~中略~~~~~~~~~~
対陣している敵軍の様子を高い木の上にのぼつて観察していると、陣中が俄かに色めきたち、幔幕を張つて囲いをしつらえると、こんどは粛として静まりかえつたのを怪しみ、敵国の事情にくわしい男に尋ねると其れは、戦略を決するために占いをさせているのだと答えたということが、春秋左氏伝の中に書かれていますが、私は其れを読んで、三千年も昔の春秋時代に(否、そんな古い時代なればこそ・と言うべきでしょうか)占いをする者のために其の環境を陣中に於てさえととのえたのに感心しましたが、やはり其れが本筋のような気がします。
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