戦国以前の蓍筮
- 2020/12/11
- 18:27
先日の『麒麟がくる』を視聴した方の中には用いられた立卦具を筮竹と勘違いした人も居たと見えて、江戸時代から使われ始める筮竹を松永弾正が使用するのはおかしいと書かれていたが、実際に使用されたのは筮竹ではなく蓍であるから此の批判の当たらない事は既に読者諸賢の承知されているところであると思う。
もっとも、短いシーンだった事もあり、あれを筮竹でなく蓍策であると見抜けた人は殆ど居なかった筈で、かくいう私ですら思った以上に色艶等の質感も筮竹と遜色なく見えたのに驚いた位である。
ただし、筮竹は論外としても蓍が適当なものであったのかどうかという点は検討を要するところであろう。
仮に松永弾正が易占を嗜んだとした場合、その立卦法としては白蛾以前に幅を利かせていた擲銭がもっとも相応しいもので、実際足利学校の系統もそうであったとされているから、時代的には擲銭の方がリアリティがあったと言える。
しかし、先に書いたように脚本家氏は筮竹のジャラジャラを場面に加えたいという意向であったというし、あのシーンに擲銭では如何にも迫力を欠く為、そこに庵主製作の蓍策の出番もあった訳だが、弾正が蓍を手にしているのがナンセンスかと言えば、一概にそうとまでは言い切れない。
同時代に擲銭が幅を利かせていたのは、『火珠林』に基づく『卜筮元亀』が足利学校において採り上げられた事と関係があると思われるが、占筮を重んじる朱子学そのものは早くに渡来していて、周知の如く後醍醐天皇の時代には禅僧によって宋学が輸入されており、東洋文庫には吉野朝を遥かに遡る正治二年(1200)大江宗光の奥書のある『中庸章句』(朱子)の古鈔本が収蔵されている。
また、足利学校における易の伝授は、義理易の「正伝」と占卜の「別伝」との二通りがあったが、正伝は王弼を中心に旧注に依拠するも適宜程朱の新注を採用していたし、肝心の別伝のほうにしても教科書として用いられた『周易命期経』を見れば繋辞伝の大衍之数章を引いて十八変本筮法を解説するところから始めているように、足利の易が擲銭一色でなかった事が判然とするのである。
ドラマでは易を嗜む理由として孔子を引き合いに出し、五十にして以て易を学べば云々のくだりを引用しているが、だとすれば純粋な術数というよりも儒的な要素をそこに持ち込んでいると言える訳で、蓍を用いた大衍筮法を弾正が採用したとして、なんら怪しむには足らぬとするべきであろう。
スポンサーサイト