算木再論
- 2020/12/20
- 10:22
かつて算木のはなしを書いて、それが随貞白蛾以降に登場した占具ではないかと考察したところ、読者より算置(さんおき)の歴史を考えれば、江戸よりずっと以前に算木が存在したと考えるべきではないかという趣旨のご指摘を頂いた事がある。
算置というのは、我が国中近世の俗占の一種であり、専門からやや外れる為、私は不案内であるが、易に類似した、というよりも易占を通俗化したような占術であったようだ。
しかし、そこで用いられる算木が我々が筮策で布いた卦を表すのに使う記卦具とイコールで結べるのかどうかは慎重に検討すべき事項のように思われる。
たとえばWikipediaは二枚の算置の絵図を掲げていて、1494年の『三十二番職人歌合』の図は筮竹様の棒こそ見えているが、我々の目には記卦具としての算木らしきものは描かれていないように見える。
次に掲載された図(狂言『井杭』)の算木は成る程これは誰がどう見ても算木のようだが、1900年前後というから資料が随分新しくてこれでは随貞白蛾以前に算木を遡らせる資料として用いる事は出来よう筈もない。
また、上記は馬場信武の『易学啓蒙図説』に出ている図であるが、算木が見えておらず、硯と筆が描かれていて、黄漆板に板書する気満々であるのが窺われるのは、朱子の筮儀を図式化している訳だから当たり前と言えば当たり前だが、当時記卦具として算木が既に広く取り入れられて居たとしたら、何か注意書きめいた記述があっても良さそうな気がする。
馬場信武は、正徳五年(1715)つまり新井白蛾の生誕年に没している人であるが、やはり此の間に算木が易占具として取り入れられた可能性が高いように私には感じられる。
また、仮に算置において今日我々が用いているところの算木の原型が既に使用されていたとした場合、恐らく身分の低い算置の道具を儒者が取り入れる等というのはプライドが許さない筈で、易占に取り入れるのに抵抗が少なかったのは随貞白蛾ら売卜の徒であったと考えるのは自然だろう。
ところで、室町末の御伽草子『ささやき竹』に「なかのり、十六づをくり、八けのそくさをもってさんぎをちらし」とあるらしいが、この「さんぎをちらし」という表現が何となく私には引っ掛かる。
やはり、これは立卦法としての投げ算木が早くに成立していたという事を示しているのであろうか。
算置というのは、我が国中近世の俗占の一種であり、専門からやや外れる為、私は不案内であるが、易に類似した、というよりも易占を通俗化したような占術であったようだ。
しかし、そこで用いられる算木が我々が筮策で布いた卦を表すのに使う記卦具とイコールで結べるのかどうかは慎重に検討すべき事項のように思われる。
たとえばWikipediaは二枚の算置の絵図を掲げていて、1494年の『三十二番職人歌合』の図は筮竹様の棒こそ見えているが、我々の目には記卦具としての算木らしきものは描かれていないように見える。
次に掲載された図(狂言『井杭』)の算木は成る程これは誰がどう見ても算木のようだが、1900年前後というから資料が随分新しくてこれでは随貞白蛾以前に算木を遡らせる資料として用いる事は出来よう筈もない。
また、上記は馬場信武の『易学啓蒙図説』に出ている図であるが、算木が見えておらず、硯と筆が描かれていて、黄漆板に板書する気満々であるのが窺われるのは、朱子の筮儀を図式化している訳だから当たり前と言えば当たり前だが、当時記卦具として算木が既に広く取り入れられて居たとしたら、何か注意書きめいた記述があっても良さそうな気がする。
馬場信武は、正徳五年(1715)つまり新井白蛾の生誕年に没している人であるが、やはり此の間に算木が易占具として取り入れられた可能性が高いように私には感じられる。
また、仮に算置において今日我々が用いているところの算木の原型が既に使用されていたとした場合、恐らく身分の低い算置の道具を儒者が取り入れる等というのはプライドが許さない筈で、易占に取り入れるのに抵抗が少なかったのは随貞白蛾ら売卜の徒であったと考えるのは自然だろう。
ところで、室町末の御伽草子『ささやき竹』に「なかのり、十六づをくり、八けのそくさをもってさんぎをちらし」とあるらしいが、この「さんぎをちらし」という表現が何となく私には引っ掛かる。
やはり、これは立卦法としての投げ算木が早くに成立していたという事を示しているのであろうか。
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