汲冢書のこと
- 2020/12/26
- 09:27
このところ中国学は既存の文献を扱う従来の分野よりも出土資料を対象にした研究のほうが活気があるようだ。
実際に出土資料によって従来の定説が覆されるような発見が続いているから、それも無理なからぬ事ではあるが、私は正直言って此の手の分野を余り好きになれずにいる。
それは最新の成果にアクセスするには中国からの簡体字の情報をこまめにチェックし続けなければならないのが途方もなく面倒に感じるという理由も一つにはあるけれど、そもそも直接に現物を見る事が出来ずに、大陸の研究者が散々手垢を付けた後のデガラシ同然のものと睨めっこしないといけないというのも気に入らない。
また、自分にしか見られない新資料を使わなければ論文を書けないようなのは二流以下で、自分は誰でもアクセス出来るような資料だけを使って研究を行って来たという意味の事を宮崎市定がどこかで言っていたけれど、私の目には出土資料と格闘している連中は大抵が前者に属する人種のように思われてならないのだ。
とはいっても、苟も易学の研究者を自任する者として、易関連の出土資料の研究成果に全く暗いというのではただ時代の流れに取り残されているに過ぎないから、何か訳出された判り易いもので耳学問を仕込む位の事はしておきたいが、残念ながら数字卦を最初に提唱して此の分野に先駆的な業績を残した張政烺(1912~2005)の著作すら我が国では訳出されていないのである。
そんな中にあって以前京大で御講演を拝聴した事もある大野裕司氏の『戦国秦漢出土術数文献の基礎的研究』(2014)は、この分野の近年の出土物および研究状況を概観する上で便利だが、易に特化した内容ではないから、私のような易以外の術数分野に丸で暗くて興味も乏しい者には何やらよく分からないものも多い。
そんな私と同じように怠惰で視野の狭い人には、元勇準氏の東大における博士論文『「周易」の儒教経典化研究』が面白く啓発的な内容になっているのでオススメしたいと思う(もっとも博士論文につき、そこらの書店で入手するという訳には行かず、閲覧には東大の図書館か国会図書館に足を運ぶしかないのだけれど)。
この博士論文は、馬王堆出土の帛書『周易』をはじめ、阜陽漢簡『周易』、戦国楚簡『周易』など関連の出土物を詳しく検討した上で、儒教が道家思想に対して優位に立つ為に本来無関係の占筮書であった此の書物が儒教経典として解釈されて行く過程に鋭く考察を加えて甚だ興味深いものがある。
ただ、この博士論文を拝読して不満に感じるのは、第六章第三節で『春秋左氏伝』中の『易』に関連する説話の成立時期について考察を試みているものの、“汲冢書”について全く触れられていない点であった。
元氏は、いわゆる左国占話の作られた時期を前漢末の劉歆の時代と結論付けている。
もっとも、この結論自体は目新しいものではなく、『左伝』そのものを劉歆の偽作とする説は早くに唱えられているし、また、劉歆が校書事業に際して占話を創作して紛れ込ませたという見方もあるが、左国占話の製作年代を前漢末まで引き下げたい時に障壁となるのが、「汲冢書」の存在である。
汲冢書とは、晋の太康三年(282)、戦国時代末期の魏の安釐王(前243年没)の墓と推定されている所謂「汲冢」から出土した資料群のことで、『逸周書』『竹書紀年』などと共に『周易』が出土したとされる。
残念ながら汲冢書の大半は既に亡んで我々は其の内容を詳しく検討する術を持たないのだが、『晋書』束晳伝に発見の経緯や其の内容、整理のあらましについて記されている。
杜預『左氏伝集解』後序によると、汲冢書中の『周易』上下篇は今本と同じであるが経文だけで十翼がなく、また別に陰陽説があり、『師春』と名付けられた『左伝』中の卜筮記事について解説した書があったという。
汲冢書については諸説あって、その発見年も太康二年とする説あり、出土した古墓の墓主についても安釐王ではなく襄王であるとする説あり、また哀王に比定する説もありと、被葬者が誰かさえ確たる事は判らないというのが本当らしい(吉川忠夫「汲家書發見前後」1999)。
とはいえ、いずれに比定するにせよ、前漢初期の馬王堆を遥かに遡る時代のものには違いない事になるから、そこから出た『師春』が『左伝』の卜筮記事について記しているのであれば、左国占話の製作年代を前漢末まで引き下げる事はやはり困難と言わねばならないだろう。
経文が今本と同じで十翼が無かったという証言からも、馬王堆の帛書『周易』より遡る時代の易である事が容易に想像されるのである。
近年の出土資料の中に、左国占話の製作年代について下限を定める事の出来るものが見つかっているのかどうか私は不案内で聞き及んでいないけれど、そういった資料が見つかれば大変面白いと思う。
また、汲冢書中の『易』関連資料には『易繇陰陽卦』という『周易』とほぼ同じであるが繇辞の異なったものがあったといい(恐らくこれが杜預のいう陰陽説と同じもの)、この似て非なるものというのは『易』の成立や原型を考える上で非常に興味深いものであったに違いない。
これらに類似したものが、今後どこからか発掘されぬとも限らない訳で、やはり幾ら嫌い(謙虚に苦手と言い換えても良いのだが)とは言っても、大陸の出土資料から目が離せないという厳然たる事実は認めざるを得ないようだ。
実際に出土資料によって従来の定説が覆されるような発見が続いているから、それも無理なからぬ事ではあるが、私は正直言って此の手の分野を余り好きになれずにいる。
それは最新の成果にアクセスするには中国からの簡体字の情報をこまめにチェックし続けなければならないのが途方もなく面倒に感じるという理由も一つにはあるけれど、そもそも直接に現物を見る事が出来ずに、大陸の研究者が散々手垢を付けた後のデガラシ同然のものと睨めっこしないといけないというのも気に入らない。
また、自分にしか見られない新資料を使わなければ論文を書けないようなのは二流以下で、自分は誰でもアクセス出来るような資料だけを使って研究を行って来たという意味の事を宮崎市定がどこかで言っていたけれど、私の目には出土資料と格闘している連中は大抵が前者に属する人種のように思われてならないのだ。
とはいっても、苟も易学の研究者を自任する者として、易関連の出土資料の研究成果に全く暗いというのではただ時代の流れに取り残されているに過ぎないから、何か訳出された判り易いもので耳学問を仕込む位の事はしておきたいが、残念ながら数字卦を最初に提唱して此の分野に先駆的な業績を残した張政烺(1912~2005)の著作すら我が国では訳出されていないのである。
そんな中にあって以前京大で御講演を拝聴した事もある大野裕司氏の『戦国秦漢出土術数文献の基礎的研究』(2014)は、この分野の近年の出土物および研究状況を概観する上で便利だが、易に特化した内容ではないから、私のような易以外の術数分野に丸で暗くて興味も乏しい者には何やらよく分からないものも多い。
そんな私と同じように怠惰で視野の狭い人には、元勇準氏の東大における博士論文『「周易」の儒教経典化研究』が面白く啓発的な内容になっているのでオススメしたいと思う(もっとも博士論文につき、そこらの書店で入手するという訳には行かず、閲覧には東大の図書館か国会図書館に足を運ぶしかないのだけれど)。
この博士論文は、馬王堆出土の帛書『周易』をはじめ、阜陽漢簡『周易』、戦国楚簡『周易』など関連の出土物を詳しく検討した上で、儒教が道家思想に対して優位に立つ為に本来無関係の占筮書であった此の書物が儒教経典として解釈されて行く過程に鋭く考察を加えて甚だ興味深いものがある。
ただ、この博士論文を拝読して不満に感じるのは、第六章第三節で『春秋左氏伝』中の『易』に関連する説話の成立時期について考察を試みているものの、“汲冢書”について全く触れられていない点であった。
元氏は、いわゆる左国占話の作られた時期を前漢末の劉歆の時代と結論付けている。
もっとも、この結論自体は目新しいものではなく、『左伝』そのものを劉歆の偽作とする説は早くに唱えられているし、また、劉歆が校書事業に際して占話を創作して紛れ込ませたという見方もあるが、左国占話の製作年代を前漢末まで引き下げたい時に障壁となるのが、「汲冢書」の存在である。
汲冢書とは、晋の太康三年(282)、戦国時代末期の魏の安釐王(前243年没)の墓と推定されている所謂「汲冢」から出土した資料群のことで、『逸周書』『竹書紀年』などと共に『周易』が出土したとされる。
残念ながら汲冢書の大半は既に亡んで我々は其の内容を詳しく検討する術を持たないのだが、『晋書』束晳伝に発見の経緯や其の内容、整理のあらましについて記されている。
杜預『左氏伝集解』後序によると、汲冢書中の『周易』上下篇は今本と同じであるが経文だけで十翼がなく、また別に陰陽説があり、『師春』と名付けられた『左伝』中の卜筮記事について解説した書があったという。
汲冢書については諸説あって、その発見年も太康二年とする説あり、出土した古墓の墓主についても安釐王ではなく襄王であるとする説あり、また哀王に比定する説もありと、被葬者が誰かさえ確たる事は判らないというのが本当らしい(吉川忠夫「汲家書發見前後」1999)。
とはいえ、いずれに比定するにせよ、前漢初期の馬王堆を遥かに遡る時代のものには違いない事になるから、そこから出た『師春』が『左伝』の卜筮記事について記しているのであれば、左国占話の製作年代を前漢末まで引き下げる事はやはり困難と言わねばならないだろう。
経文が今本と同じで十翼が無かったという証言からも、馬王堆の帛書『周易』より遡る時代の易である事が容易に想像されるのである。
近年の出土資料の中に、左国占話の製作年代について下限を定める事の出来るものが見つかっているのかどうか私は不案内で聞き及んでいないけれど、そういった資料が見つかれば大変面白いと思う。
また、汲冢書中の『易』関連資料には『易繇陰陽卦』という『周易』とほぼ同じであるが繇辞の異なったものがあったといい(恐らくこれが杜預のいう陰陽説と同じもの)、この似て非なるものというのは『易』の成立や原型を考える上で非常に興味深いものであったに違いない。
これらに類似したものが、今後どこからか発掘されぬとも限らない訳で、やはり幾ら嫌い(謙虚に苦手と言い換えても良いのだが)とは言っても、大陸の出土資料から目が離せないという厳然たる事実は認めざるを得ないようだ。
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