蒼流庵易学講座
- 2021/01/28
- 18:11
「學」は、大人が蓍を操作するのを台の下から子どもが見て覚える形の字だという説が少なくとも江戸時代には唱えられていた事を奈良場勝先生に教えて頂いたが、そうすれば学問の原義は易を学ぶ事つまり易学にあって、それこそが学問の王道だと言ってしまっても差し支えない事になる訳だ。
請われて今月12日から蒼流庵易学講座を開講しているのだが、易を人に教えるというのは自分にとって初めての試みである為、緊張感を持って毎度講義に臨んでいる。
講座といっても出張での個人教授形式で進めており、基本は週に一回2時間~2時間半ほどで、一昨日第三回の講義を終えた。
易に触れるのが全く初めてという方がお相手なので、恐る恐る様子を窺いながら進めているのだが、易というのはそう言えば戒慎恐懼の教えだなと、初っ端から実感しているところだ。
もっとも現在のところ申し分のない進捗状況と言って良く、既に天水訟の卦までは解説を終える事が出来たので、修了までの道筋は凡そつける事が出来たのではないかと思っている。
こちらも初めての試みにつき、正直なところ要領もよく分からないのだが、今回教授させて頂いている方は地方の医大レベルの学力が必要とされる某難関校の御出身で頭脳明晰にして理解力も豊か、教える側も不安が少なくてこれは教授の初心者にとっても格好の相手と言えるかもしれない。
五十代の方で、まさに孔夫子のいう「五十もって易を学べば」を地で行くような格好になっているのだが、実際に四十~五十歳代が易に取り組む適齢期なのではないかという気がする。
4~5か月かけて先ずは駆け足で火水未済までの解説を終えたいと思っているが、加齢現象に因るものか、昨今光陰は矢を通り越して銃弾並みの加速を遂げているように感じられるので、あっという間に修了してしまいそうだ。
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