アラフィフよ、易を学べ
- 2021/02/01
- 18:05
『論語』述而篇に見える「五十にして易を学べば云々」の「易」字が魯論では同音(エキ)の「亦」になっていたという陸徳明『経典釈文』の記載により、孔子はそもそも『易』など読んではおらず、くだんの言も「五十歳にしてまた学びを深めるならば、大きな過ちをする事はなくなるだろう」という全く別の意味なのだとする説は、蒼流庵随想の読者諸賢には周知であろうから今更贅言を弄する事は控えたい。
浅野裕一「孔子は『易』を学んだか?」(『図書』656号,26-31,岩波書店)によれば、馬王堆帛書『周易』中の要伝の内容は、明らかに「五十にして以て易を学べば、以て大過無かるべし」との『論語』述而篇の記述を下敷きにしており、孔子が『易』を学び、その成果を易伝として著述したとする考えは古くから儒家の間に存在したことになるとしていて、管見の限りでは、昨今の学界は亦字説よりも易字説を是とする方向に向いているように思われる。
馬王堆翼伝の成立は孔子の時代とは遥かに下ると思われるから、孔子の学派でなく孔子その人が『易』を愛読したのかどうか、私にはどちらが是とも非とも判断が付きかねるが、たしかな事は「易」字説に則った学易観が長らく私たちに影響を与えたという事実であろう。
しかし、その影響というのが必ずしも好ましいものであったかどうか、難しいところだ。
例えば、我が国にも易学は早い時期に伝わっていて、律令制においても、『易』は五経の順序通りに経学の第一番目に挙げられ、鄭玄と王弼の注を用いることが規定されているのだが、それは飽くまで建前上の話に過ぎなかったようで、『易』は第一に取り上げられるどころか、取り組まれたと思しき痕跡が少なく、経学を司った博士家においてさえ、『易』が盛んに研究されたような様子を窺う事が出来ないのは、どうやら『論語』の五十歳学易説の影響により、『易』は五十以後に学ぶものだという伝統が暗黙の内に形成されていた為らしい。
それは藤原頼長(1120~1156)の『台記』の記述にも垣間見る事が出来、康治二年(1143)の条で、「俗に易を学ぶ者には凶があるとか、五十歳以後でなければ読んではならない等というが、自分はそういった俗伝には何らの根拠もないと考える」旨が記されているが、ここに我々は当時の知識社会で『易』というものがどのように受け取られていたのかを如実に垣間見る事が出来る。
近代の狩野直喜でさえ易を長らく敬遠しており、ようやく五十にして読み始めたというのだから、この暗黙の伝統が如何に強力な呪縛として働いたか、推して知るべきだろう。
しかし、今実際に易を教授してみて教師の立場で読み直すという得難い経験をさせてもらっているが、やはり此の従来の学易観があながち的外れなものでもないと思うようになった。
易は六十四卦三百八十四爻を以て森羅万象を説き尽くさんとする書であるが、内容を吟味するに矢張り或る程度の人生経験を積んだ上でなければ十分に味わい尽くせぬところがあるように思われる。
これは勿論古典たる書すべてに当てはまる事で、いかなるものも人生経験を積んだ上で読むのでなければ十分に玩味する事など出来ようはずもなく、それでこそ古典として尊ばれる資格があるとも言えるのだが、『易』には特にそれが強く当てはまるように私には感じられるのだ。
だから、それなりに人生経験を積まれたアラフィフ諸氏は、有害無益なスマホなど手放して、その時間を少しでも『易』を読む事に当ててみたならどれほど意義ある時間を過ごせるだろうかと思う。
二階サンも“観光”などと軽々しく口にする前に、『易』をきちんと学んでおかれたら良かったのだろうけれど、学易適齢期を遥かに通り過ぎて齢八十を越えられた今となっては後の祭りと言う他ないようだ。
いや、何かを学ぶのに遅すぎるという事はないのかもしれない。
読書百遍意自ら通ずとは行かなくとも、岩波の易でも朝日の本田易でも、二回くらい通読する時間は八十を越えた御老体にも残っている筈だ。
浅野裕一「孔子は『易』を学んだか?」(『図書』656号,26-31,岩波書店)によれば、馬王堆帛書『周易』中の要伝の内容は、明らかに「五十にして以て易を学べば、以て大過無かるべし」との『論語』述而篇の記述を下敷きにしており、孔子が『易』を学び、その成果を易伝として著述したとする考えは古くから儒家の間に存在したことになるとしていて、管見の限りでは、昨今の学界は亦字説よりも易字説を是とする方向に向いているように思われる。
馬王堆翼伝の成立は孔子の時代とは遥かに下ると思われるから、孔子の学派でなく孔子その人が『易』を愛読したのかどうか、私にはどちらが是とも非とも判断が付きかねるが、たしかな事は「易」字説に則った学易観が長らく私たちに影響を与えたという事実であろう。
しかし、その影響というのが必ずしも好ましいものであったかどうか、難しいところだ。
例えば、我が国にも易学は早い時期に伝わっていて、律令制においても、『易』は五経の順序通りに経学の第一番目に挙げられ、鄭玄と王弼の注を用いることが規定されているのだが、それは飽くまで建前上の話に過ぎなかったようで、『易』は第一に取り上げられるどころか、取り組まれたと思しき痕跡が少なく、経学を司った博士家においてさえ、『易』が盛んに研究されたような様子を窺う事が出来ないのは、どうやら『論語』の五十歳学易説の影響により、『易』は五十以後に学ぶものだという伝統が暗黙の内に形成されていた為らしい。
それは藤原頼長(1120~1156)の『台記』の記述にも垣間見る事が出来、康治二年(1143)の条で、「俗に易を学ぶ者には凶があるとか、五十歳以後でなければ読んではならない等というが、自分はそういった俗伝には何らの根拠もないと考える」旨が記されているが、ここに我々は当時の知識社会で『易』というものがどのように受け取られていたのかを如実に垣間見る事が出来る。
近代の狩野直喜でさえ易を長らく敬遠しており、ようやく五十にして読み始めたというのだから、この暗黙の伝統が如何に強力な呪縛として働いたか、推して知るべきだろう。
しかし、今実際に易を教授してみて教師の立場で読み直すという得難い経験をさせてもらっているが、やはり此の従来の学易観があながち的外れなものでもないと思うようになった。
易は六十四卦三百八十四爻を以て森羅万象を説き尽くさんとする書であるが、内容を吟味するに矢張り或る程度の人生経験を積んだ上でなければ十分に味わい尽くせぬところがあるように思われる。
これは勿論古典たる書すべてに当てはまる事で、いかなるものも人生経験を積んだ上で読むのでなければ十分に玩味する事など出来ようはずもなく、それでこそ古典として尊ばれる資格があるとも言えるのだが、『易』には特にそれが強く当てはまるように私には感じられるのだ。
だから、それなりに人生経験を積まれたアラフィフ諸氏は、有害無益なスマホなど手放して、その時間を少しでも『易』を読む事に当ててみたならどれほど意義ある時間を過ごせるだろうかと思う。
二階サンも“観光”などと軽々しく口にする前に、『易』をきちんと学んでおかれたら良かったのだろうけれど、学易適齢期を遥かに通り過ぎて齢八十を越えられた今となっては後の祭りと言う他ないようだ。
いや、何かを学ぶのに遅すぎるという事はないのかもしれない。
読書百遍意自ら通ずとは行かなくとも、岩波の易でも朝日の本田易でも、二回くらい通読する時間は八十を越えた御老体にも残っている筈だ。
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