死せる京房
- 2021/02/13
- 09:04
前回の記事で、京房こそ断易の源流であると書いたが、象数易(厳密には象数易と占候易は分けて考えるべきだが、ここでは便宜上占候易も象数易に含める事とする)そのものは孟喜を開祖とすべきで、同時代人たる焦延寿も象数易の大家と称して差し支えないが、やはり焦延寿の門人たる京房こそ其の大成者なのであった。
しかし、漢易と言えば我々はすぐに象数易とイコールで結んでしまいがちであるけれど、漢初にはまだ義理訓詁を主とする地味なもので、田何から楊何に至る易学は、孟喜以降のように陰陽五行思想を以て災異を説くような奇怪なものではなかったらしい。
また、恐らくは象数易といえど、本来は象数を以て『易』の経文を解釈しようとした試みから出発していて、それが災異に彩られたのは『易』の地位が儒学の中で未だ低かった頃に幅を利かせていた『尚書』や『春秋』を奉じる学者たちが儒学に災異的思想を持ち込んだのに倣ったまでの事で、『易』から災異の説が生まれたという訳ではない。
ただ、後発の新興勢力である易学派(と仮に名付ける事にする)は、最初から抽象度の極めて高い経典を奉じていて、陰陽五行や災異との親和性は、『尚書』や『春秋』の比ではなかったから、陰陽五行説が最も盛んに喧伝された漢代殊に前漢の思潮にあっては躍進するに最も時の利を得ていたという事が出来る。
後漢に入ると古文学である費直易に人気が出始めて、施孟梁邱ら今文の易ばかりが持て囃されるという時代ではなくなったが、もはや象数は訓詁を重んじる学者にも無縁のものではなくなっていたようで、鄭玄などは費氏易に拠りながらも今文易における迷信色の強い理論まで摂取しているのが看取されるから面白い。
そして、後漢の時代が終わりを告げると魏に王弼という天才が現れ、象数を排して老荘的な立場から『易』を読もうとするのだが、この王氏易は我々が欠損のない形で内容を知る事の出来る最も古いものである。
しかし、その王氏易とて結局は象数易の反動として立ち現れたものと観る事が出来る訳で、結局はアンチという点で象数易の、そして其の大成者である京房の影響下にあるという見方も出来なくはない。
そうすると、象数易は勿論、義理易もまた京房と無縁ではありえず、死せる京房、易学家を走らすと言っては言い過ぎかもしれないけれど、その影響の大きさには今更ながらに驚かされるところがある。
ところで、鈴木由次郎氏の言うように、我が国の易占は遠く唐の僧、一行の系統を引くもので、一行は漢の孟喜、京房の易学を伝えた人であるから、我が国の易占は京房易の流れを汲むものなのであった(易学の変遷『易学研究』昭和45年11月号)。
しかし、漢易と言えば我々はすぐに象数易とイコールで結んでしまいがちであるけれど、漢初にはまだ義理訓詁を主とする地味なもので、田何から楊何に至る易学は、孟喜以降のように陰陽五行思想を以て災異を説くような奇怪なものではなかったらしい。
また、恐らくは象数易といえど、本来は象数を以て『易』の経文を解釈しようとした試みから出発していて、それが災異に彩られたのは『易』の地位が儒学の中で未だ低かった頃に幅を利かせていた『尚書』や『春秋』を奉じる学者たちが儒学に災異的思想を持ち込んだのに倣ったまでの事で、『易』から災異の説が生まれたという訳ではない。
ただ、後発の新興勢力である易学派(と仮に名付ける事にする)は、最初から抽象度の極めて高い経典を奉じていて、陰陽五行や災異との親和性は、『尚書』や『春秋』の比ではなかったから、陰陽五行説が最も盛んに喧伝された漢代殊に前漢の思潮にあっては躍進するに最も時の利を得ていたという事が出来る。
後漢に入ると古文学である費直易に人気が出始めて、施孟梁邱ら今文の易ばかりが持て囃されるという時代ではなくなったが、もはや象数は訓詁を重んじる学者にも無縁のものではなくなっていたようで、鄭玄などは費氏易に拠りながらも今文易における迷信色の強い理論まで摂取しているのが看取されるから面白い。
そして、後漢の時代が終わりを告げると魏に王弼という天才が現れ、象数を排して老荘的な立場から『易』を読もうとするのだが、この王氏易は我々が欠損のない形で内容を知る事の出来る最も古いものである。
しかし、その王氏易とて結局は象数易の反動として立ち現れたものと観る事が出来る訳で、結局はアンチという点で象数易の、そして其の大成者である京房の影響下にあるという見方も出来なくはない。
そうすると、象数易は勿論、義理易もまた京房と無縁ではありえず、死せる京房、易学家を走らすと言っては言い過ぎかもしれないけれど、その影響の大きさには今更ながらに驚かされるところがある。
ところで、鈴木由次郎氏の言うように、我が国の易占は遠く唐の僧、一行の系統を引くもので、一行は漢の孟喜、京房の易学を伝えた人であるから、我が国の易占は京房易の流れを汲むものなのであった(易学の変遷『易学研究』昭和45年11月号)。
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