観相人物評論
- 2021/02/22
- 21:40
遥か遠い過去を仰いで其のうちにユートピアを見出すのはどうやら人間が持って生まれた宿命的な習性であるらしく、『黄帝内経素問』の首を飾る「上古天眞論」を観ても其の事が良く判るというものだ。
しかし、化石人類の遺物を調べても「上古天眞論」で説かれているような長寿が上古に当たり前であったという証拠は見出す事が出来ず、結局は御伽噺の範疇と解する他なかろう。
だから恐らくは、顔之推が近古以来もっとも精妙な卜筮者といえば京房・管輅・郭璞の三人だけだと言っているのも同様なのであって、私たちがほんの一昔前に過ぎない昭和の先師たちを神格化するのもまた何ら異なる所はないように私には思われる。
そして、京房や管輅の実際は最早我々には確かめるすべが残されていないけれど、昭和の諸師であれば或る程度まで客観的な検証を試みる手がかりが少なからずあるのに誰もそれを行おうとしないのは、もしかすると占術を覆う神秘のベールが剥ぎ取られるのを無意識に恐れる心理が作用しているのかもしれない。
それを生活の糧としている占業者なら猶更触れられない主題であるのは理解出来なくもないが、幸い私は占いを飯のタネにしている訳ではないから、その点少しは気楽にそういった冒険をする事が出来るというものだ。
ここに観相人物評論という昭和十二年に発刊された本があって、昭和の名人を血祭りにあげる格好の素材を提供してくれている。
著者は言わずと知れた石龍子で、かつて日本橋の玄龍子、芝の石龍子と並び称された観相における二大巨頭の一人である。
この本は表題の通り、観相の立場から観た人物評論であるが、著者が呆れる位に人物を観る目がない事に驚かされよう。
当時勢いがあったと思しき十五名が評論対象となっているのだが、特に最初の五人は余りに酷い。
冒頭を飾るのは近衛文麿であるが、箇条書きになっている
一、思想は厚徳、崇高であつて廣大緻密
一、心性は寛仁にして公明正大
一、氣力は耐忍力が強大であつて不撓不屈
一、視察力は深遠にして聡明
一、企畫力は高大であつて始終一貫、忠誠を主持し、時勢を洞察して忠愛、恭謙、廣く世界を鑑識され、以て國政に從がはれ、昭和の覇業に偉大な力を盡され、有終の美を収めらるゝであろう。
を眺め見ただけでも其のことがよく判るというものだろう。
近衛文麿から松岡洋右までの五名はA級戦犯として縛り首になったり獄死したりした人間ばかりで、唯一の例外である鈴木喜三郎も翼賛体制を招き来した元凶の一人であるが、これらの人物が本書では尽くベタ褒めにされているのだから恐れ入る。
或いは体制に阿る目的で著わされたものではないかと勘繰りたくなって来るが、それにしても其の後の運勢を見通せていたら流石にこんな末代まで恥を晒すような本は書かないだろうから、著者の観相の精度は其の程度のものだったと見るより他にはなさそうだ。
勿論事後立法によるA級戦犯という概念そのものの賛否はまた別の問題であるし、彼等とて時局に翻弄された結果の末路だと言えば言えぬ訳ではないが、とは言え観相の大家が専門の技術を駆使して鑑定(?)した結果がこれだというのではやはり御粗末の誹りは免れまい。
もっとも、近衛文麿は同時代の人達の目には余程魅力的な人物として映っていたと見えて、先に紹介した姓名と運命でもかなり好意的に評されているところを見ると、石龍子ばかりを笑うのは酷というものかもしれないけれど。
また、所々でヒトラーとムッソリーニがヨイショされているのも此の本の特徴である。
最後の「編輯だより」には下記のようにある。
著者石龍子氏は、觀相家として其の權威を知られてゐる人、醫學を修めて歐米の觀相學を醫學的立場より科學として研究し、所謂俗間の易占的觀相學と異つた科學的の觀相學者として獨自の立場に立つてゐる。嘗ては一九一三年一四年には英京倫敦に於て、ゼー・ハイテング・スピリツト・オブ・ヂヤパンを發刊し其の名聲は海外諸國にまで知られ、近時世界の話題となつたシンプソン夫人の觀相を發表して歐米をアツと言はせ、世界の大新聞は氏の觀相記事の掲載權の獲得に猛烈なる競争を演じた程であつた。
当時の欧米だけでなく、今日の我々をもアッと言わせるだけの内容である事は是非上記リンクから読者諸賢御自身が自らの眼で確認してみられるが良かろう。
しかし、化石人類の遺物を調べても「上古天眞論」で説かれているような長寿が上古に当たり前であったという証拠は見出す事が出来ず、結局は御伽噺の範疇と解する他なかろう。
だから恐らくは、顔之推が近古以来もっとも精妙な卜筮者といえば京房・管輅・郭璞の三人だけだと言っているのも同様なのであって、私たちがほんの一昔前に過ぎない昭和の先師たちを神格化するのもまた何ら異なる所はないように私には思われる。
そして、京房や管輅の実際は最早我々には確かめるすべが残されていないけれど、昭和の諸師であれば或る程度まで客観的な検証を試みる手がかりが少なからずあるのに誰もそれを行おうとしないのは、もしかすると占術を覆う神秘のベールが剥ぎ取られるのを無意識に恐れる心理が作用しているのかもしれない。
それを生活の糧としている占業者なら猶更触れられない主題であるのは理解出来なくもないが、幸い私は占いを飯のタネにしている訳ではないから、その点少しは気楽にそういった冒険をする事が出来るというものだ。
ここに観相人物評論という昭和十二年に発刊された本があって、昭和の名人を血祭りにあげる格好の素材を提供してくれている。
著者は言わずと知れた石龍子で、かつて日本橋の玄龍子、芝の石龍子と並び称された観相における二大巨頭の一人である。
この本は表題の通り、観相の立場から観た人物評論であるが、著者が呆れる位に人物を観る目がない事に驚かされよう。
当時勢いがあったと思しき十五名が評論対象となっているのだが、特に最初の五人は余りに酷い。
冒頭を飾るのは近衛文麿であるが、箇条書きになっている
一、思想は厚徳、崇高であつて廣大緻密
一、心性は寛仁にして公明正大
一、氣力は耐忍力が強大であつて不撓不屈
一、視察力は深遠にして聡明
一、企畫力は高大であつて始終一貫、忠誠を主持し、時勢を洞察して忠愛、恭謙、廣く世界を鑑識され、以て國政に從がはれ、昭和の覇業に偉大な力を盡され、有終の美を収めらるゝであろう。
を眺め見ただけでも其のことがよく判るというものだろう。
近衛文麿から松岡洋右までの五名はA級戦犯として縛り首になったり獄死したりした人間ばかりで、唯一の例外である鈴木喜三郎も翼賛体制を招き来した元凶の一人であるが、これらの人物が本書では尽くベタ褒めにされているのだから恐れ入る。
或いは体制に阿る目的で著わされたものではないかと勘繰りたくなって来るが、それにしても其の後の運勢を見通せていたら流石にこんな末代まで恥を晒すような本は書かないだろうから、著者の観相の精度は其の程度のものだったと見るより他にはなさそうだ。
勿論事後立法によるA級戦犯という概念そのものの賛否はまた別の問題であるし、彼等とて時局に翻弄された結果の末路だと言えば言えぬ訳ではないが、とは言え観相の大家が専門の技術を駆使して鑑定(?)した結果がこれだというのではやはり御粗末の誹りは免れまい。
もっとも、近衛文麿は同時代の人達の目には余程魅力的な人物として映っていたと見えて、先に紹介した姓名と運命でもかなり好意的に評されているところを見ると、石龍子ばかりを笑うのは酷というものかもしれないけれど。
また、所々でヒトラーとムッソリーニがヨイショされているのも此の本の特徴である。
最後の「編輯だより」には下記のようにある。
著者石龍子氏は、觀相家として其の權威を知られてゐる人、醫學を修めて歐米の觀相學を醫學的立場より科學として研究し、所謂俗間の易占的觀相學と異つた科學的の觀相學者として獨自の立場に立つてゐる。嘗ては一九一三年一四年には英京倫敦に於て、ゼー・ハイテング・スピリツト・オブ・ヂヤパンを發刊し其の名聲は海外諸國にまで知られ、近時世界の話題となつたシンプソン夫人の觀相を發表して歐米をアツと言はせ、世界の大新聞は氏の觀相記事の掲載權の獲得に猛烈なる競争を演じた程であつた。
当時の欧米だけでなく、今日の我々をもアッと言わせるだけの内容である事は是非上記リンクから読者諸賢御自身が自らの眼で確認してみられるが良かろう。
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