蒼流庵易学講座の拘り
- 2021/02/27
- 20:24
蒼流庵易学講座では幾つか拘っている点があって、まずは既成のテキストを一切使用しない事である。
巷間では岩波文庫本や朝日選書本を利用する事も多いらしく、それはそれで少々講師の程度が低くとも内容が或る水準以下に下がるのを防ぐ装置として働いてくれる可能性もあるが、既存の書物は注解の併記が基本となるから、どうしても煩雑になる事は避けがたいし、何処かに丸で気に入らない記述があったとしても、そこだけ除去する訳には行かないず、不本意な点が幾らか残存するのは如何ともしがたい。
その点、完全自前のものは思う存分納得の行くものを作り上げる事が出来る訳で、蒼流庵易学講座でしか在り得ない内容を追求して行く事が可能となる訳だ。
と言っても別段私は奇を衒いたい訳ではなく、あくまでも受講者の習得の能率を可能な限り高めんとするなら、否が応でも完全自前が基本になるというだけの話で、これは私以外の誰が取り組んだとて手抜きをせずに追求する場合、自前テキストは当然の当たり前と言う他ない。
例外は占例集で、流石にこれは自前で必要十分な量を揃えるのが難しい為、とりあえず先に御紹介した易占例集と易断に見る明治諸事件を購入してもらう事にしたが、『易占例集』は六十四卦順に並んでいるのが便利であるものの、三変筮から入って行こうとする者には中筮を交える点がやや邪魔になり、片岡本は占例の収載量に少々不満がある。
本当は高島易断で取り組むのが理想に思うが、あの古めかしさと分量は現代人ことに初学者には大きなマイナスと言う他ない。
サブテキストとしての占例集については今後に課題を残しているというのが正直なところだ。
また、先日既に書いたことであるが、講座は週に一回二時間、四卦進む事にしていて、これは個人的に理想の進め方であると思っている。
これが可能なのは受講者の仕事の中休みの時間を利用するのが前提であるのと、私が徒歩で教授に通えるという条件が物を言っているのが、在り来たりな月に一度半日の講座というのでは、読み方さえ分からない妙な漢字が続出する得体の知れぬ文章に取り組むのに到底集中力の持続は期待出来ず、やはり週一四卦が復習の観点からも穏当であろう。
復習は読み終えたテキストを次の回までに3回ないし4回読み返してもらうよう御願いしているが(これも既成品を使用していたら如何なるものを選んでも困難であったろう)、少々モチベーションが低下した場合でも何とか附いて来られるのが此の程度の分量だろうと思っている。
疑問点を翌週に解決する機会があるというのも大きなポイントで、これが月一の頻度であった場合、翌月に大量に質問事項が持ち込まれる事にも成り兼ねず、それを回避するのにも此の頻度と分量が役立っている筈だ。
それから、今回の受講者は「易学」よりも寧ろ「易占」に関心がおありなのだが、あえて「易学講座」と銘打ったのにも理由がある。
読者諸賢には今更であるけれど、易には義理と占筮という二つの読み方があって、元々は占筮の書物であっても、其の後の展開は義理の方面を無視しては語れない訳で、私はむしろ義理の方により得も言われぬ味わい深さを感じている。
そこでテキストそのものは義理の方面から読んでいき、そこから占筮に繋げる解説を付けるように努めた。
言ってみれば義理と占筮の総合を図る朱子の行き方に近い事になるが、将来的に第二回目を開催するとした場合に、占いというものを端から信じないという人にも楽しんでもらえる内容にしたいという思惑があるからでもある。
また、受講者氏は東洋医学に造詣が深い為、必ずしも医易学という訳ではないが、なるべくそちらの面からも楽しんでもらえるよう工夫を凝らしている事を付け加えておく。
巷間では岩波文庫本や朝日選書本を利用する事も多いらしく、それはそれで少々講師の程度が低くとも内容が或る水準以下に下がるのを防ぐ装置として働いてくれる可能性もあるが、既存の書物は注解の併記が基本となるから、どうしても煩雑になる事は避けがたいし、何処かに丸で気に入らない記述があったとしても、そこだけ除去する訳には行かないず、不本意な点が幾らか残存するのは如何ともしがたい。
その点、完全自前のものは思う存分納得の行くものを作り上げる事が出来る訳で、蒼流庵易学講座でしか在り得ない内容を追求して行く事が可能となる訳だ。
と言っても別段私は奇を衒いたい訳ではなく、あくまでも受講者の習得の能率を可能な限り高めんとするなら、否が応でも完全自前が基本になるというだけの話で、これは私以外の誰が取り組んだとて手抜きをせずに追求する場合、自前テキストは当然の当たり前と言う他ない。
例外は占例集で、流石にこれは自前で必要十分な量を揃えるのが難しい為、とりあえず先に御紹介した易占例集と易断に見る明治諸事件を購入してもらう事にしたが、『易占例集』は六十四卦順に並んでいるのが便利であるものの、三変筮から入って行こうとする者には中筮を交える点がやや邪魔になり、片岡本は占例の収載量に少々不満がある。
本当は高島易断で取り組むのが理想に思うが、あの古めかしさと分量は現代人ことに初学者には大きなマイナスと言う他ない。
サブテキストとしての占例集については今後に課題を残しているというのが正直なところだ。
また、先日既に書いたことであるが、講座は週に一回二時間、四卦進む事にしていて、これは個人的に理想の進め方であると思っている。
これが可能なのは受講者の仕事の中休みの時間を利用するのが前提であるのと、私が徒歩で教授に通えるという条件が物を言っているのが、在り来たりな月に一度半日の講座というのでは、読み方さえ分からない妙な漢字が続出する得体の知れぬ文章に取り組むのに到底集中力の持続は期待出来ず、やはり週一四卦が復習の観点からも穏当であろう。
復習は読み終えたテキストを次の回までに3回ないし4回読み返してもらうよう御願いしているが(これも既成品を使用していたら如何なるものを選んでも困難であったろう)、少々モチベーションが低下した場合でも何とか附いて来られるのが此の程度の分量だろうと思っている。
疑問点を翌週に解決する機会があるというのも大きなポイントで、これが月一の頻度であった場合、翌月に大量に質問事項が持ち込まれる事にも成り兼ねず、それを回避するのにも此の頻度と分量が役立っている筈だ。
それから、今回の受講者は「易学」よりも寧ろ「易占」に関心がおありなのだが、あえて「易学講座」と銘打ったのにも理由がある。
読者諸賢には今更であるけれど、易には義理と占筮という二つの読み方があって、元々は占筮の書物であっても、其の後の展開は義理の方面を無視しては語れない訳で、私はむしろ義理の方により得も言われぬ味わい深さを感じている。
そこでテキストそのものは義理の方面から読んでいき、そこから占筮に繋げる解説を付けるように努めた。
言ってみれば義理と占筮の総合を図る朱子の行き方に近い事になるが、将来的に第二回目を開催するとした場合に、占いというものを端から信じないという人にも楽しんでもらえる内容にしたいという思惑があるからでもある。
また、受講者氏は東洋医学に造詣が深い為、必ずしも医易学という訳ではないが、なるべくそちらの面からも楽しんでもらえるよう工夫を凝らしている事を付け加えておく。
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