『易経』今井宇三郎訳注
- 2021/03/05
- 18:11
今井宇三郎氏の明治書院新釈漢文大系『易経』全三巻は非常に世評の高いもので、儒学の系譜に於ける伝統的な易解釈に基づく訳解としては我が国に於ける最高峰に位置付けて差し支えない名著と言えよう。
昭和62年に上巻が上梓され、中巻の刊行が平成五年であるから、著者が堅実かつ厳密なる態度で臨んだ事が其の遅筆ぶりに伺われる。
著者の没後、遺稿を元に堀池信夫(1947~2019)、間嶋潤一(1950~2012)の両門下が引き継ぐ形で、上巻刊行より足掛け二十一年を経て繋辞伝以下翼伝の残りを解説した下巻が日の目を見るまでのいきさつは、下巻末尾のあとがきに詳しい。
文化事業の見本という他ない息の長い仕事である。
先に述べたように訳解は非常に練られており、公田翁の『易経講話』より多くの注釈が比較の俎上に載せていて、其の検討は當に微に入り細を穿つ。
ただ、私の印象では伝統的な儒教的義理易の解釈を墨守する余り、原義を外れているような箇所も少なくない様に思われる。
やはり「貞」字は貞正の意ではなく、卜問とすべきであろうし、損益の辞に見えている「十朋之亀」は天下の大宝、貴重な宝物の意ではなく、亀卜に用いる亀甲と解するのが自然だろう。
また、どうも著者には洛陽の紙価を高からしめた『易経講話』に対して或る種のジェラシーめいた感情があったのではないかと感じられる点がなくもなく、多くの注解で意図的に公田翁の採った解釈とは異なる読み方をしているように思われるところがある。
火天大有上九の小象伝にある「大有上吉」について“或人の説に、「折中」に従って後、「上吉」とし、上等の吉、大吉であると解しているが云々”とあるのは、恐らくは『易経講話』に対する当て擦りであろう。
と言っても、著者の学問に対する並々ならぬ自信は単なる傲岸不遜の類ではないし、それは行間にも溢れていて、甚だ取るべきところが多いのが本書である。
ただ、如何せん上級者向けの本で、孰れかと言えばレファ本としての価値が高い為、本書を座右に易を一から勉強しよう等という用途には全く不向き。
絶対に挫折しない根性を持ち合わせているなら、公田本を主とし今井本を副読本として歩を進めるのが理想であろうか。
ところで、公田本は今井本に比べて邦人の解を重んじる傾向があり、第一に並木栗水、第二に伊藤東涯を重視しているが、今井本は邦人の説には余り触れず、其の中では佐藤一斎を採るところが多いようだ。
講演中の今井先生
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