経書の読み方
- 2021/03/08
- 19:11
公田易にせよ今井易にせよ、何やら難しくて分厚い本と格闘していると、いっぱしの易学者になったような錯覚に陥りがちである。
実際にそういう人を時折見かけるが、経書には正統な読み方というのがあって、かかる諸説を折衷した書物を読んで判ったような気になるのは所詮素人の範疇であると言う他ないようだ。
狩野直喜は漢文研究法の第五講で此の事について簡潔に述べており、「すじを正して」読むべき事を力説しているのだが、経学は従来支那に於いても又日本に於いても色々の学派があって其の説は必ずしも定まらないので、すじ道を立ててやらなければいけないと言っている。
宋学をやるなら朱子の注を本としてこれに関連した書を読むとか、漢学をやるのに例えば『論語』を古注で読んだなら今度は『孟子』を読むのにも古注に依拠してやらなければならず、若しそうでなしに『論語』を朱注で読み、『孟子』は古注で読むという具合にした場合、其の人の経学に対する意見が立たないので、朱子をやるなら朱子、古義をやるなら古義をやって、然る後に自分の見識を立てるべきである、と。
撰者が古今の注解を広く渉猟して良いトコ採りをしたものを読めば、理解するのに最も効率の良い読み方が出来るように思うのは所詮素人考えに過ぎず、経書の読み方としては失格だというのは実に耳の痛い話であるが、君山先生の言うような狭義の経学は既に絶学の範疇ではあろう。
ただ、いくら難しい本を弄んで衒学ぶってみたところで、それが訳解の折衷本だなどという事になると、狩野直喜の如き一昔前の第一級の碩学からすれば問題にもならないという事は事実であるようだ。
言うまでもなくこれは自戒を込めての話であって、私は自分が易の経学者であるとは夢にも思っていないし、また過去に思った事もない。
謙虚に身の丈に合った学問を自分なりに追求して行く事が出来れば他に何も望むところはないというだけである。
実際にそういう人を時折見かけるが、経書には正統な読み方というのがあって、かかる諸説を折衷した書物を読んで判ったような気になるのは所詮素人の範疇であると言う他ないようだ。
狩野直喜は漢文研究法の第五講で此の事について簡潔に述べており、「すじを正して」読むべき事を力説しているのだが、経学は従来支那に於いても又日本に於いても色々の学派があって其の説は必ずしも定まらないので、すじ道を立ててやらなければいけないと言っている。
宋学をやるなら朱子の注を本としてこれに関連した書を読むとか、漢学をやるのに例えば『論語』を古注で読んだなら今度は『孟子』を読むのにも古注に依拠してやらなければならず、若しそうでなしに『論語』を朱注で読み、『孟子』は古注で読むという具合にした場合、其の人の経学に対する意見が立たないので、朱子をやるなら朱子、古義をやるなら古義をやって、然る後に自分の見識を立てるべきである、と。
撰者が古今の注解を広く渉猟して良いトコ採りをしたものを読めば、理解するのに最も効率の良い読み方が出来るように思うのは所詮素人考えに過ぎず、経書の読み方としては失格だというのは実に耳の痛い話であるが、君山先生の言うような狭義の経学は既に絶学の範疇ではあろう。
ただ、いくら難しい本を弄んで衒学ぶってみたところで、それが訳解の折衷本だなどという事になると、狩野直喜の如き一昔前の第一級の碩学からすれば問題にもならないという事は事実であるようだ。
言うまでもなくこれは自戒を込めての話であって、私は自分が易の経学者であるとは夢にも思っていないし、また過去に思った事もない。
謙虚に身の丈に合った学問を自分なりに追求して行く事が出来れば他に何も望むところはないというだけである。
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