注釈史から見た文化の五百年周期説
- 2021/03/14
- 10:24
かつて、百目鬼恭三郎が、古典の注釈史から割り出された文化の周期性について面白い仮説を提示した事がある(『たった一人の世論』26p~29p)。
中国では古来、古典の注釈が文化の中心事業のようになっているが、注釈というものは古典の意味がそのままでよく分かる時代にはそもそも不要で、意味が通じなくなって来て初めて注釈の必要性が出て来る訳だ。
古典の意味が通じなくなるということは、それとセットになっている諸文化の意味が見失われているということで、畢竟、注釈の盛んになる時期は文化が新しく入れ替わった時期で、孔子が『易』『書』『詩』『礼』『春秋』の五経を制定してから凡そ五百年たった後漢の時代に入って、にわかに注釈書が輩出される事に先ず百目鬼は注目している。
前漢にあっても、五経に関する書物は沢山著わされているが、それらはまだ聖人の教えを祖述するという範囲を出ていなかったと推定され、つまり、前漢の人々はまだ孔子と同じ文化を呼吸しており、それほど詳しい注釈を必要としなかった、ところが、後漢になると、春秋戦国の時代とは言葉も習俗も随分違ってくるようになり、経の意味が分からなくなってしまい、そこで注釈の仕事が興って来る。
いわゆる「古注」は後漢末の鄭玄によって集大成されるが、鄭玄が死んだのはちょうど西暦200年の事である。
この注釈のおかげで、当分経の意味は通用するようになったものの、それから五百年経つとまた文化は変わってしまい、意味が疎通しないようになってしまう。
そこで興って来るのが、鄭玄らの古注に再注釈をつける「疏」の事業であるが、その集大成である孔穎達らの『五経正義』が完成して頒布されたのが西暦653年である。
そして、それからまた五百年後が新注の仕事を大成した朱子の時代であるという風に、凡そ中国に於ける注釈の仕事は五百年刻みの周期性を持っている事が判る。
この五百年周期は、西欧の文化にも或る程度までは当てはまるらしく、ホメロスの注釈本が初めてアレキサンドリア図書館から出たのは、著者の死後ほぼ600年経ってからで、ウェルギリウスの詩に、ローマの文法家セルビウスが注を付けたのも、ウェルギリウスの死後400年ぐらいだそうだから、だいたい500年で文化は入れ替わるとみて差し支えないようだ。
転じて日本文化に目を向けると、我が国は大昔から文化輸入大国であり、その文化の交代は輸入に左右されるところが大きいものの、それでもやはりほぼ500年の周期性をそこに見て取る事が出来るという。
すなわち、王朝文化の完成したのは10世紀であり、それから500年後には室町文化が出来上がり、これは20世紀前半まで命脈を保ってきたが、それが江戸の爛熟文化や明治の文明開化よりも室町文化の延長にありと見るのは、日本家屋の主流である書院造りという様式や、畳に布団を敷いて寝る習慣、或いは一日三食、米を軟らかく炊く、味噌汁を飲むといった食文化も皆室町期に生まれたものだからだ。
その室町文化の命脈が、五百年経って尽きようとしているのが現在(百目鬼本は昭和後半の刊行)で、面白い例えとして味噌汁を「おふくろの味」というのは、つまりこれは前時代の味であって、いまの味ではないという事ではないかと百目鬼は謂う。
そして、この室町文化は昭和に入って急速に変質して来ており、畳に座らない生活(つまり椅子生活)の普及もそうであるし、室町時代に完成した和服も日常生活から殆ど追放されているのである。
百目鬼は支那学の専門家ではなく、孰れかと言えば我が国の中世文学に専門家顔負けの学識を有した人であるけれど、優れたジャーナリストとしての慧眼が此の文化の500年周期説に於いても発揮されているようだ。
中国では古来、古典の注釈が文化の中心事業のようになっているが、注釈というものは古典の意味がそのままでよく分かる時代にはそもそも不要で、意味が通じなくなって来て初めて注釈の必要性が出て来る訳だ。
古典の意味が通じなくなるということは、それとセットになっている諸文化の意味が見失われているということで、畢竟、注釈の盛んになる時期は文化が新しく入れ替わった時期で、孔子が『易』『書』『詩』『礼』『春秋』の五経を制定してから凡そ五百年たった後漢の時代に入って、にわかに注釈書が輩出される事に先ず百目鬼は注目している。
前漢にあっても、五経に関する書物は沢山著わされているが、それらはまだ聖人の教えを祖述するという範囲を出ていなかったと推定され、つまり、前漢の人々はまだ孔子と同じ文化を呼吸しており、それほど詳しい注釈を必要としなかった、ところが、後漢になると、春秋戦国の時代とは言葉も習俗も随分違ってくるようになり、経の意味が分からなくなってしまい、そこで注釈の仕事が興って来る。
いわゆる「古注」は後漢末の鄭玄によって集大成されるが、鄭玄が死んだのはちょうど西暦200年の事である。
この注釈のおかげで、当分経の意味は通用するようになったものの、それから五百年経つとまた文化は変わってしまい、意味が疎通しないようになってしまう。
そこで興って来るのが、鄭玄らの古注に再注釈をつける「疏」の事業であるが、その集大成である孔穎達らの『五経正義』が完成して頒布されたのが西暦653年である。
そして、それからまた五百年後が新注の仕事を大成した朱子の時代であるという風に、凡そ中国に於ける注釈の仕事は五百年刻みの周期性を持っている事が判る。
この五百年周期は、西欧の文化にも或る程度までは当てはまるらしく、ホメロスの注釈本が初めてアレキサンドリア図書館から出たのは、著者の死後ほぼ600年経ってからで、ウェルギリウスの詩に、ローマの文法家セルビウスが注を付けたのも、ウェルギリウスの死後400年ぐらいだそうだから、だいたい500年で文化は入れ替わるとみて差し支えないようだ。
転じて日本文化に目を向けると、我が国は大昔から文化輸入大国であり、その文化の交代は輸入に左右されるところが大きいものの、それでもやはりほぼ500年の周期性をそこに見て取る事が出来るという。
すなわち、王朝文化の完成したのは10世紀であり、それから500年後には室町文化が出来上がり、これは20世紀前半まで命脈を保ってきたが、それが江戸の爛熟文化や明治の文明開化よりも室町文化の延長にありと見るのは、日本家屋の主流である書院造りという様式や、畳に布団を敷いて寝る習慣、或いは一日三食、米を軟らかく炊く、味噌汁を飲むといった食文化も皆室町期に生まれたものだからだ。
その室町文化の命脈が、五百年経って尽きようとしているのが現在(百目鬼本は昭和後半の刊行)で、面白い例えとして味噌汁を「おふくろの味」というのは、つまりこれは前時代の味であって、いまの味ではないという事ではないかと百目鬼は謂う。
そして、この室町文化は昭和に入って急速に変質して来ており、畳に座らない生活(つまり椅子生活)の普及もそうであるし、室町時代に完成した和服も日常生活から殆ど追放されているのである。
百目鬼は支那学の専門家ではなく、孰れかと言えば我が国の中世文学に専門家顔負けの学識を有した人であるけれど、優れたジャーナリストとしての慧眼が此の文化の500年周期説に於いても発揮されているようだ。
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