百目鬼説から見た『周易』経文の成立時期
- 2021/03/17
- 18:34
経書の注釈ブームが起きるスパンから割り出された百目鬼の文化500年周期説を仮に正しいと認めて適用すると、馬王堆帛書の翼伝から易“経”の凡その成書年代を推定する事が出来る。
いわゆる馬王堆漢墓は紀元前2世紀(前漢初期)のものであるから、単純に言えばここから500年遡った辺りに『易経』の成立を求めれば良い訳だ。
すると、紀元前7世紀前後に『易経』が誕生した事になる。
『春秋』三伝から割り出された孔子の生卒年から考えれば、凡そ孔子と同時代の成立か、それよりやや遡る事が出来る計算になろう。
ただし、だからと言って孔子が『易』を読んだ事にはならない筈だし、そもそも馬王堆帛書翼伝の成立を漢初に定めるのも適切ではないだろう。
印刷技術も何もなかった時代、書物の流布伝播には現代とは比較にならない程に時間がかかった筈で、出来たばかりの書物が墳墓に副葬されたとしたならば、それは被葬者が著者その人であるか、もしくは著者にかなり近しい人物であるという以外にはありそうもない。
その帛書翼伝とて内容を見てみると、中々に雑然としていて到底一人の著者の手になるとは考え難い繋辞伝、また現行翼伝にはない「二三子問」「易之義」「要」「繆和」「昭力」といった諸篇の出土を考えれば、それらが一気に書き上げられたとは到底考えられないから、諸書の書かれた時代は戦国あたりには楽に遡る事が出来る筈で、百目鬼説を当て嵌めるならやはり『易経』は孔子に先行する文献であると考えて良いように思われる。
あとは、張政烺以来俄かに注目が集まった数字卦に経文が如何にして接続して行くかという問題になるのだが、いずれにせよ成立史は現伝資料をこねくりまわして手がかりが得られる段階は既に通り越して、出土資料頼みになって来ているのが気に食わないというのが本当のところ。
いわゆる馬王堆漢墓は紀元前2世紀(前漢初期)のものであるから、単純に言えばここから500年遡った辺りに『易経』の成立を求めれば良い訳だ。
すると、紀元前7世紀前後に『易経』が誕生した事になる。
『春秋』三伝から割り出された孔子の生卒年から考えれば、凡そ孔子と同時代の成立か、それよりやや遡る事が出来る計算になろう。
ただし、だからと言って孔子が『易』を読んだ事にはならない筈だし、そもそも馬王堆帛書翼伝の成立を漢初に定めるのも適切ではないだろう。
印刷技術も何もなかった時代、書物の流布伝播には現代とは比較にならない程に時間がかかった筈で、出来たばかりの書物が墳墓に副葬されたとしたならば、それは被葬者が著者その人であるか、もしくは著者にかなり近しい人物であるという以外にはありそうもない。
その帛書翼伝とて内容を見てみると、中々に雑然としていて到底一人の著者の手になるとは考え難い繋辞伝、また現行翼伝にはない「二三子問」「易之義」「要」「繆和」「昭力」といった諸篇の出土を考えれば、それらが一気に書き上げられたとは到底考えられないから、諸書の書かれた時代は戦国あたりには楽に遡る事が出来る筈で、百目鬼説を当て嵌めるならやはり『易経』は孔子に先行する文献であると考えて良いように思われる。
あとは、張政烺以来俄かに注目が集まった数字卦に経文が如何にして接続して行くかという問題になるのだが、いずれにせよ成立史は現伝資料をこねくりまわして手がかりが得られる段階は既に通り越して、出土資料頼みになって来ているのが気に食わないというのが本当のところ。
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