TEIOUGAKU
- 2021/03/26
- 20:14
先日、易に関しては全くの門外漢ではあるけれど教養人として決して恥ずかしくない知的水準を体現されている方と談論していて、たまたま話題易学に及んだ際、私の話に対して、「自分は『易』は帝王学の書物だという認識を持っていたが、そうではないのか」という意味の事を言われた。
私は、『易』が帝王学の書物であるというのは必ずしも間違っている訳ではないが、正確には「帝王学の書として読む“読み方”がある」のだという風に説明した。
元来『易』は占筮の書物で、それを儒家が一つの思想書として捉える読み方が後に生まれ、帝王学として読むのは其の流れの解釈法と言って良いのだが、あくまでも『易』は占筮の書であるとするのが正しい解釈である。
しかし、『易』は帝王学の書也とする読み方が間違っているとまでは必ずしも言えない。
我が国では根本通明がこの立場から『易』を解釈する代表的な人物であるけれど、遥か紀元前に遡って既に十翼の彖象伝中には帝王学を匂わせる記述が散見されるのであり、その古さは幕末明治どころの話ではないのである。
殊に大象伝には、「先王」「后」などの語を用いて卦象を説くものがかなり多い。
また、それらの語を用いずとも、離為火の大象伝「大人以て明を継ぎ、四方を照らす」などは明らかに為政者の事であるし、沢火革の「君子以て歴を治め、時を明らかにす」とある君子は暦を司る者である訳だから、そこらのジェントルマンでない事はそれこそ「明らか」なのである。
そのように彖象伝に目を通してみて、それらしい記述を抜き出してみると、私の(やや甘めの)カウントでは三十三卦、つまりほぼ半数の卦にそれらしい言葉が附されていた。
うち彖伝は十八卦、象伝は二十卦で、先王や后云々と露骨に説くものは十一卦である。
勿論、ここから『易』を帝王学の書であると断じる事が出来ないのは言うまでもないけれど、少なくとも其の萌芽がそこに見えている事は否定できないし、『史記』の孔子世家が彖象伝に触れている事から考えれば、少なくとも司馬遷以前に帝王学として読む立場が存在したと言う事もそう無茶な理屈ではないと思う。
ただ、そもそもからして「帝王学」自体の定義付けは明確にしておかなければならないのだけれど。
儒教経典は基本的に儒臣たちが帝王を善政に導くために引かれて来た伝統が長くあり(基本的に諫言の根拠として)、初期には董仲舒に於けるが如く、『春秋』が幅を利かせていたらしいが、前漢末には『易』がライバル(?)の経書を引き離して首位に列せられるようになった訳で、そうすると『易』が勢い帝王学的臭気を漂わせて行くのも避けられない運命だったのである。
畢竟、儒教そのものがかかる思想の上に成り立っている事を考えれば、儒典となった時点で、『易』が担わされる役割も自ずから明らかであったと言う他ない。
ただし、それには『易』の持つ高い抽象性を無視する事は出来ず、結局は其の抽象性故に『易』は何とでも解釈出来る“あいまいさ”を持っていたのであり、いかようにしたところで『詩経』を帝王学に解する事は出来っこないが、俘虜記として解するような珍説(日本には張明澄が紹介して知られるようになった徐世大の説)が『易』には生まれる余地があるのも其の為である。
私は、『易』が帝王学の書物であるというのは必ずしも間違っている訳ではないが、正確には「帝王学の書として読む“読み方”がある」のだという風に説明した。
元来『易』は占筮の書物で、それを儒家が一つの思想書として捉える読み方が後に生まれ、帝王学として読むのは其の流れの解釈法と言って良いのだが、あくまでも『易』は占筮の書であるとするのが正しい解釈である。
しかし、『易』は帝王学の書也とする読み方が間違っているとまでは必ずしも言えない。
我が国では根本通明がこの立場から『易』を解釈する代表的な人物であるけれど、遥か紀元前に遡って既に十翼の彖象伝中には帝王学を匂わせる記述が散見されるのであり、その古さは幕末明治どころの話ではないのである。
殊に大象伝には、「先王」「后」などの語を用いて卦象を説くものがかなり多い。
また、それらの語を用いずとも、離為火の大象伝「大人以て明を継ぎ、四方を照らす」などは明らかに為政者の事であるし、沢火革の「君子以て歴を治め、時を明らかにす」とある君子は暦を司る者である訳だから、そこらのジェントルマンでない事はそれこそ「明らか」なのである。
そのように彖象伝に目を通してみて、それらしい記述を抜き出してみると、私の(やや甘めの)カウントでは三十三卦、つまりほぼ半数の卦にそれらしい言葉が附されていた。
うち彖伝は十八卦、象伝は二十卦で、先王や后云々と露骨に説くものは十一卦である。
勿論、ここから『易』を帝王学の書であると断じる事が出来ないのは言うまでもないけれど、少なくとも其の萌芽がそこに見えている事は否定できないし、『史記』の孔子世家が彖象伝に触れている事から考えれば、少なくとも司馬遷以前に帝王学として読む立場が存在したと言う事もそう無茶な理屈ではないと思う。
ただ、そもそもからして「帝王学」自体の定義付けは明確にしておかなければならないのだけれど。
儒教経典は基本的に儒臣たちが帝王を善政に導くために引かれて来た伝統が長くあり(基本的に諫言の根拠として)、初期には董仲舒に於けるが如く、『春秋』が幅を利かせていたらしいが、前漢末には『易』がライバル(?)の経書を引き離して首位に列せられるようになった訳で、そうすると『易』が勢い帝王学的臭気を漂わせて行くのも避けられない運命だったのである。
畢竟、儒教そのものがかかる思想の上に成り立っている事を考えれば、儒典となった時点で、『易』が担わされる役割も自ずから明らかであったと言う他ない。
ただし、それには『易』の持つ高い抽象性を無視する事は出来ず、結局は其の抽象性故に『易』は何とでも解釈出来る“あいまいさ”を持っていたのであり、いかようにしたところで『詩経』を帝王学に解する事は出来っこないが、俘虜記として解するような珍説(日本には張明澄が紹介して知られるようになった徐世大の説)が『易』には生まれる余地があるのも其の為である。
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