韋編三たび絶つ
- 2021/04/10
- 10:06
“韋編三絶”という人口に膾炙した四字熟語が『易』と関係する事を知らぬ者は、我が蒼流庵随想の読者諸氏の中に一人も居るまいが、敢えて贅言を弄さば、此の語は『史記』孔子世家を出典とする逸話に由来し、「韋」はなめし革、「韋編」とはなめし革の紐でからげて綴じた竹簡を指しており、孔子が晩年に『易』を好んで繰り返し繰り返し熟読した為、竹簡の紐が三回も切れてしまったことから、書物を熟読するという意味で用いられる。
といっても、よくよく中国から取り寄せた竹簡を眺め見ると実に脆そうで、人並外れて物持ちの良い庵主でも扱いが恐ろしくなってくる代物であるようだ。
三絶どころか一絶でもしたら、自力で修復できる自信がないので、なるべく触らぬ方が良さそうな気がする。
触らぬ紙に祟りなし、否、触らぬ竹簡に三絶なしだ。
要するに韋編三絶というのは実際にはそれほどの熟読という訳でもないというのが本当のところだと思うが、聖人たる孔子の頭脳を以てして、三度綴じ紐が切れる程読み返したというのは余程の事だと穿った見方も出来るかもしれない。
そういえば、『易学研究』昭和45年1月号に載った「雑感」と題する薮田嘉一郎氏のエッセーに、
旧版『易経』を私は随分愛用した。しかし私以上の愛用者を紀藤元之介氏に見た。戦後、奈良で初めてお目にかかったとき、紀藤先生が所持されていたこの本は、「韋編三絶」の見本のような、ボロボロのものであった。「韋編三絶」とは『史記』の「孔子世家」にある文句で、孔子が晩年に易を喜び、序・彖・繋・象・説卦・文言などを作つたが、易を読んで、簡をとじつけた韋(なめしがわ)の紐が三べんも切れた、それ位読みかえした、というのである。「紀藤さんは今孔子だなあ」と感心したものである。
とあるが、私の手元には木藤謙氏から貰い受けた韋編三絶の岩波文庫の現物があって、以前一度ご紹介しているが、今一度写真を掲載しておこうと思う。
奥付に昭和34年とある事からすると、薮田氏が見たボロボロ文庫の後継である事は確実だが、お世辞にも長かったとは言い兼ねる六十三年の生涯の中で、恐らくは何冊も同じ本がズタボロにされたに違いない。
私の習った先生も奥田謙蔵の『漢方古方要方解説』を何冊も買い替えたと仰っていた事を今思い返している。
私は病的な位に書物を慎重に扱うので、ズタボロにした本は相当に読み返したものにさえ一冊たりと見出し得ないが、小口の指が当たる部分はどうしても変色を避けがたいので(指サックでもすれば別だが、紙が破れるリスクが上がるので使いたくない)、その箇所くらいにのみ読み返した回数を伺う事が出来る程度である。
最後に余談であるが、竹簡が縁遠い太古の遺物と化した現在でも其の名残が身近に残されていて、文章が前後いりまじって乱れていることを「錯簡」というのもそうであるし、書物が出版されたり、完成したりする事を「殺青ここに成る」と言うけれど、新しい竹には油があって虫がつき易いので、火で炙り乾かして油を取り、それを削って書いた為に此のような表現がある。
また、書物に関係する漢字として、「篇」や「籍」などが何れも竹かんむりであるのも同様で、「冊」字も拡げた竹簡を表現した文字だ。
といっても、よくよく中国から取り寄せた竹簡を眺め見ると実に脆そうで、人並外れて物持ちの良い庵主でも扱いが恐ろしくなってくる代物であるようだ。
三絶どころか一絶でもしたら、自力で修復できる自信がないので、なるべく触らぬ方が良さそうな気がする。
触らぬ紙に祟りなし、否、触らぬ竹簡に三絶なしだ。
要するに韋編三絶というのは実際にはそれほどの熟読という訳でもないというのが本当のところだと思うが、聖人たる孔子の頭脳を以てして、三度綴じ紐が切れる程読み返したというのは余程の事だと穿った見方も出来るかもしれない。
そういえば、『易学研究』昭和45年1月号に載った「雑感」と題する薮田嘉一郎氏のエッセーに、
旧版『易経』を私は随分愛用した。しかし私以上の愛用者を紀藤元之介氏に見た。戦後、奈良で初めてお目にかかったとき、紀藤先生が所持されていたこの本は、「韋編三絶」の見本のような、ボロボロのものであった。「韋編三絶」とは『史記』の「孔子世家」にある文句で、孔子が晩年に易を喜び、序・彖・繋・象・説卦・文言などを作つたが、易を読んで、簡をとじつけた韋(なめしがわ)の紐が三べんも切れた、それ位読みかえした、というのである。「紀藤さんは今孔子だなあ」と感心したものである。
とあるが、私の手元には木藤謙氏から貰い受けた韋編三絶の岩波文庫の現物があって、以前一度ご紹介しているが、今一度写真を掲載しておこうと思う。
奥付に昭和34年とある事からすると、薮田氏が見たボロボロ文庫の後継である事は確実だが、お世辞にも長かったとは言い兼ねる六十三年の生涯の中で、恐らくは何冊も同じ本がズタボロにされたに違いない。
私の習った先生も奥田謙蔵の『漢方古方要方解説』を何冊も買い替えたと仰っていた事を今思い返している。
私は病的な位に書物を慎重に扱うので、ズタボロにした本は相当に読み返したものにさえ一冊たりと見出し得ないが、小口の指が当たる部分はどうしても変色を避けがたいので(指サックでもすれば別だが、紙が破れるリスクが上がるので使いたくない)、その箇所くらいにのみ読み返した回数を伺う事が出来る程度である。
最後に余談であるが、竹簡が縁遠い太古の遺物と化した現在でも其の名残が身近に残されていて、文章が前後いりまじって乱れていることを「錯簡」というのもそうであるし、書物が出版されたり、完成したりする事を「殺青ここに成る」と言うけれど、新しい竹には油があって虫がつき易いので、火で炙り乾かして油を取り、それを削って書いた為に此のような表現がある。
また、書物に関係する漢字として、「篇」や「籍」などが何れも竹かんむりであるのも同様で、「冊」字も拡げた竹簡を表現した文字だ。
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