文明の利器
- 2021/04/19
- 20:20
竹簡周易をしげしげ眺めていると、我々が当たり前のように日々使用している紙とペンが如何に有難いものかを痛感せざるを得ない。
いま私たちは図書館の架蔵資料など1枚十円で苦も無くコピーして持ち帰るけれど、印刷技術の興る遥か以前に竹簡が書物の標準であった時代に(もっとも竹簡竹簡と言って我々は竹ばかり思い浮かべるけれど簡牘簡策の素材を必ずしも竹が独占していた訳ではなく、辺境の地では竹を産しない為に他の材料が使われていて、敦煌のそれはポプラと楊であり、スタインの発見した木牘は多くポプラ製だったという)、複製を作るなど考えただけで気の遠くなるような作業である。
学生の頃に美術の授業で篆刻をやったが、字彫以前に印面を平らに削って整える段階で躓いてしまった庵主のような手合いには、そもそもこなせそうにない作業のようだ。
それをさらに糸でからげて製本(?)するというのだから、昔の読書人の根気にはただ頭が下がるばかりである。
勿論、竹簡全盛の時代にさえ、もっと簡単に文字を記す事の出来る媒体が存在しなかった訳ではない。
即ち絹帛がそれである。
しかし、これはそもそもが高価に過ぎる代物であって、当時竹のようには入手が容易ではなかった。
なにせシルクである。
御蚕様の繭から糸を紡ぎだして作る絹布がいかに手間暇のかかるものかは今日に於いてさえ其の高価さがそれを証明しているから贅言を要すまい。
加えて、文字を記す墨にしたって製造には大変な手間がかかるし、墨が登場する以前には筆写に漆が用いられたというが、これも一定の量を得ようと思えばそう容易い事ではなかったろう。
墨と言えば、江戸時代の線装本などを手にするとビッシリ書き込みが墨書してあって嘗ての所有者の熱心さを伝えてくれる事しばしばであるけれど、あれだって鉛筆やボールペンでスラスラ書くようには行かないし、墨を磨るという作業からスタートしなければいけない事を思えば、少し前の人は文字を記すという簡単な作業さえ、我々の何倍もの労力を要したという事が判るというものだ。
筆は使用後の手入れも大切で、ほったらかしにして置くと、カチンカチンになって次の使用が容易でなくなる事は、書道の授業で日本人の全員が経験済みだろう。
それに筆ではシャーペンのような細い線は出せないし、うっかり間違えた時に消しゴムで消して書き直す事も不可能、加えて墨が乾くまではかなり時間が必要だから、次々に書き込みをしていくという我々が当たり前にやっている読書習慣さえ、一昔前の人達には出来ない芸当だったのである。
実に有難い事と言う他ない。
ところが、残念なことに我々の知的生産活動を容易にする技術的進歩に反比例して我々のそちら方面の生産力は著しい退化を見せているようだ。
その反比例も或る程度まで帳尻が合っているというならまだしも、明らかに知的能力の退化スピードの方が技術的進歩を凌駕しているようにしか思われないのは実に恐ろしい限りである。
いま私たちは図書館の架蔵資料など1枚十円で苦も無くコピーして持ち帰るけれど、印刷技術の興る遥か以前に竹簡が書物の標準であった時代に(もっとも竹簡竹簡と言って我々は竹ばかり思い浮かべるけれど簡牘簡策の素材を必ずしも竹が独占していた訳ではなく、辺境の地では竹を産しない為に他の材料が使われていて、敦煌のそれはポプラと楊であり、スタインの発見した木牘は多くポプラ製だったという)、複製を作るなど考えただけで気の遠くなるような作業である。
学生の頃に美術の授業で篆刻をやったが、字彫以前に印面を平らに削って整える段階で躓いてしまった庵主のような手合いには、そもそもこなせそうにない作業のようだ。
それをさらに糸でからげて製本(?)するというのだから、昔の読書人の根気にはただ頭が下がるばかりである。
勿論、竹簡全盛の時代にさえ、もっと簡単に文字を記す事の出来る媒体が存在しなかった訳ではない。
即ち絹帛がそれである。
しかし、これはそもそもが高価に過ぎる代物であって、当時竹のようには入手が容易ではなかった。
なにせシルクである。
御蚕様の繭から糸を紡ぎだして作る絹布がいかに手間暇のかかるものかは今日に於いてさえ其の高価さがそれを証明しているから贅言を要すまい。
加えて、文字を記す墨にしたって製造には大変な手間がかかるし、墨が登場する以前には筆写に漆が用いられたというが、これも一定の量を得ようと思えばそう容易い事ではなかったろう。
墨と言えば、江戸時代の線装本などを手にするとビッシリ書き込みが墨書してあって嘗ての所有者の熱心さを伝えてくれる事しばしばであるけれど、あれだって鉛筆やボールペンでスラスラ書くようには行かないし、墨を磨るという作業からスタートしなければいけない事を思えば、少し前の人は文字を記すという簡単な作業さえ、我々の何倍もの労力を要したという事が判るというものだ。
筆は使用後の手入れも大切で、ほったらかしにして置くと、カチンカチンになって次の使用が容易でなくなる事は、書道の授業で日本人の全員が経験済みだろう。
それに筆ではシャーペンのような細い線は出せないし、うっかり間違えた時に消しゴムで消して書き直す事も不可能、加えて墨が乾くまではかなり時間が必要だから、次々に書き込みをしていくという我々が当たり前にやっている読書習慣さえ、一昔前の人達には出来ない芸当だったのである。
実に有難い事と言う他ない。
ところが、残念なことに我々の知的生産活動を容易にする技術的進歩に反比例して我々のそちら方面の生産力は著しい退化を見せているようだ。
その反比例も或る程度まで帳尻が合っているというならまだしも、明らかに知的能力の退化スピードの方が技術的進歩を凌駕しているようにしか思われないのは実に恐ろしい限りである。
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