紙は偉大なり
- 2021/04/22
- 18:39
支那文化に於ける飛躍的発展の契機となった最大の事件は恐らくは紙の発明であろう。
竹簡のように嵩張るものは大量の文字を記録するのに適さず、さりとて絹帛ではあまりに高価で利用可能な人も限られようし、また大量消費も容易でない。
そこに紙が登場して、初めてその恩恵に預かる人が爆発的に増えた事で教育の普及現象が引き起こされる事となった。
長らく支那に於ける紙の発明者は後漢の宦官・蔡倫だとされていて、和帝(在位88~105)の治世に、樹皮やボロ布、漁網等をつき砕いて糊状にしたものを薄く拡げて乾かす製紙法を完成、帝に奏上したのが始まりとされていたが、1957年に陝西省の灞橋鎮から出土した麻紙が前漢時代のものである事が判明して、蔡倫以前に紙が作られていた事が判り、また1986年に甘粛省の放馬灘から出土した前漢時代の地図は現在確認されている最古の紙とされている。
とはいえ、正史に蔡倫が紙の発明者として記録されているという事実は、彼が本当の意味での考案者でなかったにせよ、紙の製造法において何かしら革新的な技術を発明した事の現れに違いなく、品質なのかコストなのかは兎も角として蔡倫以前と以降とで紙というものが劇的な変化を遂げたのは間違いないと見てよかろう。
その証拠に、和帝から四代後(もっとも後漢の皇帝は短命揃いで有名だから、実際には四代と言ったところでそれほど隔たってはいない)の順帝(在位125~144)の時代には首都洛陽の太学も相当に規模が大きくなって、学生の数は三万人を超えたといい、後漢の後半期に書籍商が活況を呈し、洛陽にとどまらず、地方都市に於いても広く書籍の売買が行われていたらしき事を伺うに足る記述が『後漢書』の端々に散見されるのは、儒学の普及により読書人層が拡大した事に加え、書籍が身近なものになっていった事と関係しているに違いない。
現代の我々にとって紙など余程特殊な素材や製造工程を経るもの以外には安価な事この上なく、チラシの裏面を切り刻んでメモ用紙替わりにするような人は庵主を含め幾らでも居るけれど、アイデアを整理する為の殴り書きのような事さえ、竹簡時代には困難であった事を考えると、文化人とまで言えぬ我ら一般庶民さえ、紙の発明に恩恵を受ける事如何に多大であるかを思い知らされずには居られないだろう。
竹簡のように嵩張るものは大量の文字を記録するのに適さず、さりとて絹帛ではあまりに高価で利用可能な人も限られようし、また大量消費も容易でない。
そこに紙が登場して、初めてその恩恵に預かる人が爆発的に増えた事で教育の普及現象が引き起こされる事となった。
長らく支那に於ける紙の発明者は後漢の宦官・蔡倫だとされていて、和帝(在位88~105)の治世に、樹皮やボロ布、漁網等をつき砕いて糊状にしたものを薄く拡げて乾かす製紙法を完成、帝に奏上したのが始まりとされていたが、1957年に陝西省の灞橋鎮から出土した麻紙が前漢時代のものである事が判明して、蔡倫以前に紙が作られていた事が判り、また1986年に甘粛省の放馬灘から出土した前漢時代の地図は現在確認されている最古の紙とされている。
とはいえ、正史に蔡倫が紙の発明者として記録されているという事実は、彼が本当の意味での考案者でなかったにせよ、紙の製造法において何かしら革新的な技術を発明した事の現れに違いなく、品質なのかコストなのかは兎も角として蔡倫以前と以降とで紙というものが劇的な変化を遂げたのは間違いないと見てよかろう。
その証拠に、和帝から四代後(もっとも後漢の皇帝は短命揃いで有名だから、実際には四代と言ったところでそれほど隔たってはいない)の順帝(在位125~144)の時代には首都洛陽の太学も相当に規模が大きくなって、学生の数は三万人を超えたといい、後漢の後半期に書籍商が活況を呈し、洛陽にとどまらず、地方都市に於いても広く書籍の売買が行われていたらしき事を伺うに足る記述が『後漢書』の端々に散見されるのは、儒学の普及により読書人層が拡大した事に加え、書籍が身近なものになっていった事と関係しているに違いない。
現代の我々にとって紙など余程特殊な素材や製造工程を経るもの以外には安価な事この上なく、チラシの裏面を切り刻んでメモ用紙替わりにするような人は庵主を含め幾らでも居るけれど、アイデアを整理する為の殴り書きのような事さえ、竹簡時代には困難であった事を考えると、文化人とまで言えぬ我ら一般庶民さえ、紙の発明に恩恵を受ける事如何に多大であるかを思い知らされずには居られないだろう。
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