菊と野菜
- 2021/05/25
- 18:27
日本文化論の名著とされて版を重ね続けたルース・ベネディクトの駄本『菊と刀』が実際には日本に行った事すらない文化人類学者のママゴトに過ぎないのは既に具眼の士の広く見抜いているところで、今では欧米における日本研究史の一コマに過ぎないものと思い込んでいたけれど、それは私の勘違いだったらしく、この十数年の間にも講談社学術文庫版(2005)、光文社古典新訳文庫版(2008)、平凡社ライブラリー版(2013)と複数の訳本が色々なところから上梓されているのを知って驚いた。
もっとも、このうち講談社学術文庫版は、長く読まれた長谷川松治訳(現代教養文庫)の復刊なのであるが、いずれにせよ、欧米人が読むなら兎も角として日本人の間にもこんなに需要があるとは信じがたい話である。
私はこのような本を取り上げようとは思わないし、またこれだけ広く読まれているものを今更自分が取り上げる意味があるとも思われない。
そこで今日のテーマは“菊と刀”ではなく“菊と野菜”である。
と言っても“菊と野菜”の方は書名ではない。
上杉鷹山の師に当たる折衷学派の大儒・細井平洲の教育論で、安岡正篤氏が好んで色々なところで話しておられたものらしく、私も氏の何かの書物で知ったクチだ。
平洲は、教育を「菊作り」型のものと「野菜作り」型の二種に分け、自分の教育・学問は菊作り型ではなく野菜作り型のものであるという風な事を言っている。
菊作りというのは、少しでも気にいらない処があれば容赦なく捨てて行き、百本或いは千本という中から本当の名品と呼べる一本を得ようとするもので、それに対して百姓が菜っ葉や大根といった野菜を作るのは、大小を問わず、或いは不揃いであろうと、一つ一つを食べられるように大事に育てて行くものであって、自分の教育は後者の型であるというのだが、どちらが良いと一概に決められるものではなかろう。
少数のエリートを養成出来ない事には発達した社会は統治出来ないし、そのエリートに統治されるにしても民度が低ければ国は乱れざるを得ないからである。
ただ、本当の意味での野菜作り型の教育というのは平洲のような非凡な人間にしか出来ないというのは見落とされてはならないだろう。
最初から覚えの良い人間を教えるのはさして苦労を伴わないからである。
もっとも、このうち講談社学術文庫版は、長く読まれた長谷川松治訳(現代教養文庫)の復刊なのであるが、いずれにせよ、欧米人が読むなら兎も角として日本人の間にもこんなに需要があるとは信じがたい話である。
私はこのような本を取り上げようとは思わないし、またこれだけ広く読まれているものを今更自分が取り上げる意味があるとも思われない。
そこで今日のテーマは“菊と刀”ではなく“菊と野菜”である。
と言っても“菊と野菜”の方は書名ではない。
上杉鷹山の師に当たる折衷学派の大儒・細井平洲の教育論で、安岡正篤氏が好んで色々なところで話しておられたものらしく、私も氏の何かの書物で知ったクチだ。
平洲は、教育を「菊作り」型のものと「野菜作り」型の二種に分け、自分の教育・学問は菊作り型ではなく野菜作り型のものであるという風な事を言っている。
菊作りというのは、少しでも気にいらない処があれば容赦なく捨てて行き、百本或いは千本という中から本当の名品と呼べる一本を得ようとするもので、それに対して百姓が菜っ葉や大根といった野菜を作るのは、大小を問わず、或いは不揃いであろうと、一つ一つを食べられるように大事に育てて行くものであって、自分の教育は後者の型であるというのだが、どちらが良いと一概に決められるものではなかろう。
少数のエリートを養成出来ない事には発達した社会は統治出来ないし、そのエリートに統治されるにしても民度が低ければ国は乱れざるを得ないからである。
ただ、本当の意味での野菜作り型の教育というのは平洲のような非凡な人間にしか出来ないというのは見落とされてはならないだろう。
最初から覚えの良い人間を教えるのはさして苦労を伴わないからである。
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