繋辞伝へ
- 2021/06/07
- 19:55
本日の第二十二回蒼流庵易学講座より愈々繋辞伝に突入。
二十二回を卦に置き換えると朋友講習の兌為沢となるのが何やら感慨深い。
いうまでもなく繋辞伝は易の概論総説といった内容で、正直あまり面白いとは思えないのだが、学者センセイの類は経文より先に総論の繋辞伝から読み始めよと薦める人が少なくないらしく、狩野直喜なども其の一人であった。
繋辞伝がハッタリないしコケ脅しを連呼する甚だ仏典めいたところのある事は以前にも書いたが、今回の生徒さんは仏教者としての顔もお持ちなので或いはお好みのスタイルかもしれないと言えば何を失礼なと言われるかもしれないけれど、いずれにせよ難しい熟語はそれほど多く出て来ないので、その点だけは助かる。
今日は時間の関係で、所謂“大衍之数章”つまり朱子の章立てによるところの第九章まで読み進める事にしたが、このペースだとあと二回で繋辞伝を読み終える事が出来る計算だ。
大衍之数章は講座の最初にも筮法解説の必要性から抜き出してお話していて、今回が二度目の解説なのであるが、改めて読み返しても数字が矢鱈出て来て読みにくい事この上ない。
ところで、我が広瀬宏道先生は、かつて『易学研究』誌に連載の「繋辞伝語彙考」の初回に於いて、
お前は、繋辞伝に傾倒しているので、とりあげるのか、といわれれば、正直なところ、敬遠している。実感をいえば、どうも読みづらい。文辞だけが、ひとり歩きして頭の上を流れていく感さえある。読みながら、もうひとつ焦点が定まらない。布置結構が、そなわっていそうでいて、散漫である。部分をとりあげればいいが、相互の脈絡が十全であるとも思えない。それほど読みこんでもいないので、無責任もいいところだが、ともかく読みすすめるのに抵抗がある。だからといって、無視することもできない。毛嫌いしてもいられない。人ならずとも添うてみる必要がある。
と書かれている。
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