泰卦妄説
- 2021/06/22
- 18:11
現在我々が用いるところの筮竹は、一方が細く、もう一方が太くなっているが、これは揲筮時に上になる太い方が天を表し、下になる細い方が地を表していると言われており、又、かかる加工を施す事によって扇型に開く操作がやり易くなるという事も理由だという。
ところで、よく考えてみれば、ノコギリソウで蓍策を作ると扇型に開きにくいというのは、蓍の基原がノコギリソウでなくメドハギであった事の傍証にはなりようがない筈だ。
なんとなれば、近現代の易占家がするような扇型に開く所作が上古にも行われたという証拠は何一つ見出す事が出来ないし、それどころか白蛾や随貞の時代に降ってさえ、かかる揲筮操作が行われていたという証拠はないのである。
繋辞伝の大衍之数章をどうこねくり回したところで出て来る所作でないのは言わずもがなだろう。
そう考えると、加藤大岳氏のノコギリソウについての所感も、結局は当然のように考えて疑いを差し挟まない揲筮のお作法というのが今を以て古を見ているに過ぎないだけで、かかる所作が遣り難い乃至できないからといって、ノコギリソウが蓍の基原かどうかを論ずるというのはナンセンスな話という他はない。
ただ四十九策を二分するというだけなら何も扇型にする必要はなく、握ったものを適当に二つに分ければ良い話であるし、四払い乃至八払いするにしても、一本一本を摘み挙げてカウントして行くのであれば、策が多少ひん曲がっていようが大した障害にはならないだろう。
筮竹の両端の径が違うのは、天地を表したとか、扇型に開きやすいとかいった尤もらしい理屈は後付けのものなのではないかという気が漠然としている。
では、何故に?と問われれば、恐らくは単に植物としての蓍をそのまま模しただけの話なのではなかろうか。
これは元来筮竹が蓍策の代用という性格を持つとするならばありそうな話のように思えるのである。
別段蓍に限らず植物は皆、地面に近いほうが太く、てっぺんのほうに向かって細くなっているのは当然の当たり前。
それを忠実に竹を加工して再現すれば、当然我々が使っている筮竹と同じような格好になる訳だ。
これを推し進めて想像を妄想にまで昇華させるなら、蓍と地天泰との関係が視野に入って来る。
本来、天地の関係というのは、天が上にあって地が下にある筈だが、その本来の在り方が否卦という面白からぬ卦になっていて、逆の地天泰が陰陽天地の和合した吉卦とされているのは、天の気は上に地の気は下に向かう為に、地天泰こそ天地の気が交わる象なのだと色々な注解を読んで我々はなんとなく判ったような気になっている。
しかし、これは天の生じたもうた神物たる蓍の成育状況そのままの象なのではなかろうか。
蓍の断面積の大きい=天は実際の地にぴったりくっつき、頂芽のほうは細い=地は天に向かって伸びている訳である。
広瀬宏道先生が昭和の終わり頃、「六十四卦妄説」シリーズを『易学研究』に連載しておられた事があるが、これなども自分なりの泰卦妄説といったところか。
所詮は妄説であるから、批判批評の類は一切受け付けるつもりはないので念のため。
ところで、よく考えてみれば、ノコギリソウで蓍策を作ると扇型に開きにくいというのは、蓍の基原がノコギリソウでなくメドハギであった事の傍証にはなりようがない筈だ。
なんとなれば、近現代の易占家がするような扇型に開く所作が上古にも行われたという証拠は何一つ見出す事が出来ないし、それどころか白蛾や随貞の時代に降ってさえ、かかる揲筮操作が行われていたという証拠はないのである。
繋辞伝の大衍之数章をどうこねくり回したところで出て来る所作でないのは言わずもがなだろう。
そう考えると、加藤大岳氏のノコギリソウについての所感も、結局は当然のように考えて疑いを差し挟まない揲筮のお作法というのが今を以て古を見ているに過ぎないだけで、かかる所作が遣り難い乃至できないからといって、ノコギリソウが蓍の基原かどうかを論ずるというのはナンセンスな話という他はない。
ただ四十九策を二分するというだけなら何も扇型にする必要はなく、握ったものを適当に二つに分ければ良い話であるし、四払い乃至八払いするにしても、一本一本を摘み挙げてカウントして行くのであれば、策が多少ひん曲がっていようが大した障害にはならないだろう。
筮竹の両端の径が違うのは、天地を表したとか、扇型に開きやすいとかいった尤もらしい理屈は後付けのものなのではないかという気が漠然としている。
では、何故に?と問われれば、恐らくは単に植物としての蓍をそのまま模しただけの話なのではなかろうか。
これは元来筮竹が蓍策の代用という性格を持つとするならばありそうな話のように思えるのである。
別段蓍に限らず植物は皆、地面に近いほうが太く、てっぺんのほうに向かって細くなっているのは当然の当たり前。
それを忠実に竹を加工して再現すれば、当然我々が使っている筮竹と同じような格好になる訳だ。
これを推し進めて想像を妄想にまで昇華させるなら、蓍と地天泰との関係が視野に入って来る。
本来、天地の関係というのは、天が上にあって地が下にある筈だが、その本来の在り方が否卦という面白からぬ卦になっていて、逆の地天泰が陰陽天地の和合した吉卦とされているのは、天の気は上に地の気は下に向かう為に、地天泰こそ天地の気が交わる象なのだと色々な注解を読んで我々はなんとなく判ったような気になっている。
しかし、これは天の生じたもうた神物たる蓍の成育状況そのままの象なのではなかろうか。
蓍の断面積の大きい=天は実際の地にぴったりくっつき、頂芽のほうは細い=地は天に向かって伸びている訳である。
広瀬宏道先生が昭和の終わり頃、「六十四卦妄説」シリーズを『易学研究』に連載しておられた事があるが、これなども自分なりの泰卦妄説といったところか。
所詮は妄説であるから、批判批評の類は一切受け付けるつもりはないので念のため。
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