易を善く為るものは占わず
- 2021/09/06
- 20:48
発言の前後を恣意的に切り取って抜き出し、本意を捻じ曲げて発言者の評判を落とそうとするのは、気に食わない政治家などに嫌がらせをする時にマスコミが常套手段として用いる手法であるけれど、だいたい悪意がなくとも人間の意志疎通というのはそもそもからしてデリケートなところが往々にしてあるもので、我々も日常において誤解を重ねて迷惑をかけ或いはかけられるのはよくある話だ。
文章にもこれはそのまま当てはまるが、記述の簡素な古昔の漢文など、専門家でさえ前後の文脈から意味を類推するしかないようなものが少なくない、否、殆どそのようなものばかりであるとさえ言える。
義理易の価値を高しとして占筮を低く見る者が必ず引用する『荀子』大略篇の「易を善く為る者は占わず」も「易を本当に理解している者は卦爻辞を現実に当てはめるだけで、おのずと先を自得する事が出来るもので、筮を執って占いをするのなどは易をそれほど理解出来ていない者だけなのだ」といった風に漠然と解する人が多いけれど、これも前後の「詩を善く為る者は説かず(詩をよくする者はくどくど説明しない)」「禮を善く為る者は相せず(禮をよくする者は介添え役にならない)」からすれば、「易をよくするものは軽々しく筮をとらない」の意ではないのか、とは我が広瀬宏道先生の説かれたところであった。
初めて先生にお目にかかった時も、『荀子』大略篇のあの一節を君はどう思うか?と尋ねられたものの、当時『荀子』になど興味がなかった自分は開いた事さえなかったので、只まごまごするばかりであったが、今になって考えてみれば、やはり広瀬説こそ正鵠を射たものと思う。
郭沫若などは、翼伝を荀子ないし其の後学の手に成るものと推定していて、義理易の萌芽を荀子辺りからと考えているようだが、翼伝中には義理の方面だけでなく、占筮に関する言辞も相当含まれていて、「易を善く為る者は占わず」の俗解とは相容れない内容であるように感じられる。
ただし、大略篇は『荀子』の中でも新しい部分と考えられている篇であるから、戦国末より更に儒教経典化が進行した段階で荀子に仮託して記されたものである可能性も考えられなくはない。
これが占筮より義理易を上位に置く考えから出た発言であるのか、それとも単に多筮を戒めたものであるのかは興味の尽きぬところであるが、『荀子』関連の最近の出土資料などどうなっているのか、私は甚だ不案内でよく分からない。
文章にもこれはそのまま当てはまるが、記述の簡素な古昔の漢文など、専門家でさえ前後の文脈から意味を類推するしかないようなものが少なくない、否、殆どそのようなものばかりであるとさえ言える。
義理易の価値を高しとして占筮を低く見る者が必ず引用する『荀子』大略篇の「易を善く為る者は占わず」も「易を本当に理解している者は卦爻辞を現実に当てはめるだけで、おのずと先を自得する事が出来るもので、筮を執って占いをするのなどは易をそれほど理解出来ていない者だけなのだ」といった風に漠然と解する人が多いけれど、これも前後の「詩を善く為る者は説かず(詩をよくする者はくどくど説明しない)」「禮を善く為る者は相せず(禮をよくする者は介添え役にならない)」からすれば、「易をよくするものは軽々しく筮をとらない」の意ではないのか、とは我が広瀬宏道先生の説かれたところであった。
初めて先生にお目にかかった時も、『荀子』大略篇のあの一節を君はどう思うか?と尋ねられたものの、当時『荀子』になど興味がなかった自分は開いた事さえなかったので、只まごまごするばかりであったが、今になって考えてみれば、やはり広瀬説こそ正鵠を射たものと思う。
郭沫若などは、翼伝を荀子ないし其の後学の手に成るものと推定していて、義理易の萌芽を荀子辺りからと考えているようだが、翼伝中には義理の方面だけでなく、占筮に関する言辞も相当含まれていて、「易を善く為る者は占わず」の俗解とは相容れない内容であるように感じられる。
ただし、大略篇は『荀子』の中でも新しい部分と考えられている篇であるから、戦国末より更に儒教経典化が進行した段階で荀子に仮託して記されたものである可能性も考えられなくはない。
これが占筮より義理易を上位に置く考えから出た発言であるのか、それとも単に多筮を戒めたものであるのかは興味の尽きぬところであるが、『荀子』関連の最近の出土資料などどうなっているのか、私は甚だ不案内でよく分からない。
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