揲筮時に来たりしもの
- 2021/09/12
- 10:08
今日は少々与太話系。
一月からベーシックな内容の周易講座を開講しているが、生徒さんには習うより慣れろで六十四卦の解説を始める前に一応筮儀と簡単な読卦の手順をお伝えしたところ、まだ上経の半分位までしか進んでいないという段階で早くも求占の依頼を受けたのだという。
ずいぶん気の早い話だが、易を習っているという話をうっかりしてしまったところ、じゃあ観て欲しい事があるからとか何とか言われてつい引き受ける仕儀に相成ったという話。
4分の1しかやっていない訳だから、全く知らない卦を得る確率の方がずっと高い訳で私のような小心者なら怖くてとても受けられないが、そこは数々の修羅場を潜り抜けて来た人だから、其の程度の事では物怖じしないらしい。
内容は縁談占の類で、あとで如何なる卦を得たのか、又それをどのように読み解いたのか聞かせてもらったが、案の定やっていない卦も出たものの、判断は正鵠を射た穏当なもので、初心者の占は不思議と当たるというセオリーの正しさと、自作テキストの優秀さを確かめられて些か誇らしくもあった。
と、それはさて置き、今日の本題はここからである。
依頼者の男性は霊感のある人だったらしく(それなら易断など乞う必要もなさそうだが、それはまた別の話で霊能者氏もひとりの迷える子羊であるのは我々凡夫諸氏と何ら変わる所がないようだ)、リモートでの鑑定だったそうだが、揲筮時に蓍策をさばく手に「何かが来ていた」と後で言われたらしい。
卦爻を表出する主体についての説は、①自己の持つもの、潜在的なものが教示の主体である、②神仏など自己の外側の存在が教示を為す、③鏡に自然の理が映るが如き原理で卦爻が示される、の三種に大別されるようだが、私自身は①の立場に立っている。
従って、もし揲筮時に手元に何者か霊的存在が来ているとなれば②の考え方に傾かざるを得ないような気もするが、そもそも此の霊感男氏の霊視(?)は信を置けるものであるのかという点が一つと、次に手に何者かが来ていたとして、それは易とは直接関係のない存在、たとえば平生その人が信仰している対象が占者をサポートしているという見方も出来るし、別段信仰してはいなくとも守護霊の類が関与していたと考えることも出来よう。
だから、たとえ何者かが揲筮時に手元に宿ったりするとしても、それを直ちに易神めいた存在であると短絡的に考えるべきではないというのが私の立場であるが、得卦論の観点から大いに興味を引かれるところがあるのは事実である。
一月からベーシックな内容の周易講座を開講しているが、生徒さんには習うより慣れろで六十四卦の解説を始める前に一応筮儀と簡単な読卦の手順をお伝えしたところ、まだ上経の半分位までしか進んでいないという段階で早くも求占の依頼を受けたのだという。
ずいぶん気の早い話だが、易を習っているという話をうっかりしてしまったところ、じゃあ観て欲しい事があるからとか何とか言われてつい引き受ける仕儀に相成ったという話。
4分の1しかやっていない訳だから、全く知らない卦を得る確率の方がずっと高い訳で私のような小心者なら怖くてとても受けられないが、そこは数々の修羅場を潜り抜けて来た人だから、其の程度の事では物怖じしないらしい。
内容は縁談占の類で、あとで如何なる卦を得たのか、又それをどのように読み解いたのか聞かせてもらったが、案の定やっていない卦も出たものの、判断は正鵠を射た穏当なもので、初心者の占は不思議と当たるというセオリーの正しさと、自作テキストの優秀さを確かめられて些か誇らしくもあった。
と、それはさて置き、今日の本題はここからである。
依頼者の男性は霊感のある人だったらしく(それなら易断など乞う必要もなさそうだが、それはまた別の話で霊能者氏もひとりの迷える子羊であるのは我々凡夫諸氏と何ら変わる所がないようだ)、リモートでの鑑定だったそうだが、揲筮時に蓍策をさばく手に「何かが来ていた」と後で言われたらしい。
卦爻を表出する主体についての説は、①自己の持つもの、潜在的なものが教示の主体である、②神仏など自己の外側の存在が教示を為す、③鏡に自然の理が映るが如き原理で卦爻が示される、の三種に大別されるようだが、私自身は①の立場に立っている。
従って、もし揲筮時に手元に何者か霊的存在が来ているとなれば②の考え方に傾かざるを得ないような気もするが、そもそも此の霊感男氏の霊視(?)は信を置けるものであるのかという点が一つと、次に手に何者かが来ていたとして、それは易とは直接関係のない存在、たとえば平生その人が信仰している対象が占者をサポートしているという見方も出来るし、別段信仰してはいなくとも守護霊の類が関与していたと考えることも出来よう。
だから、たとえ何者かが揲筮時に手元に宿ったりするとしても、それを直ちに易神めいた存在であると短絡的に考えるべきではないというのが私の立場であるが、得卦論の観点から大いに興味を引かれるところがあるのは事実である。
スポンサーサイト