筮竹のはなし
- 2021/09/27
- 18:35
立卦具の王様のように思われている“筮竹”が蓍策の代用品として登場した新参者であることは、これまでも再三論じて来たが、そもそも何故代用品の方が幅を利かせるようになったのだろうか。
山崎闇斎が筮儀の解説に筮竹を用いた事例はあるものの、実際に蓍策が姿を消して筮竹にとって代わられるのは新井白蛾以降であるというが、どうもこれは学問上の理由ではなく、孰れかと言えば当時のマーケティングと絡めて論じるべきものであるらしい。
というのは、白蛾は“日本易学中興の祖”等とあがめられて我が国易学史の無視できない位地を占めているけれど、白蛾の名が上がったのは、その学識の深さや入神の占筮に依ったものではなかったようで、奈良場勝先生によれば、白蛾の易占書を手掛けた書肆による筮具の抱き合わせ商法がヒットとして爆発的な売れ行きをみせたことが大きいのだという。
今でもタロットなんかが附録としてくっ付いていて、本を買った其の日から占いが始められますゼ的なものが幾らでも書店に溢れているけれど、江戸時代にも既に此の商法が行われていたようだ。
してみると、筮竹の普及という現象も此の商法との関連で考えざるを得なくなって来る。
これには均一な品質の筮具を大量生産する必要が生じる訳だが、メドハギは採取できる季節が限られているし、所詮植物の茎だから太さにも撓み具合にも相当なバラツキがあるのは避けられない。
加えて、当時は今ほど雑草としてウジャウジャ生えている訳ではなかったから、これを採取してそこそこ均一な品質で市場に出すのは非常に難しいことであったと思われる。
そうなると年中採取出来て、加工によって幾らでも同じものを大量生産出来る竹に目が付けられるのも時間の問題であろう。
そもそも白蛾がメドハギより竹のほうが優れていると思っていた為に蓍策が消えて筮竹に取って代わられたという訳ではないのは、自身、大阪在住時代に庭で蓍の栽培を試みている程には正統立卦具に執着を示している事から明らかである。
しかし、散々筮竹を売り捌いておいて自分は蓍策を使いますというのでは読者を馬鹿にした話なので表向きのポーズとして筮竹を使っていたという事もあったかもしれない。
また、白蛾の師に当たる平澤随貞も同様に筮竹を使っていたようなフシがあるが(白蛾流と随貞流の諸々の関係はどちらがどちらに影響を与えたのか先後関係の特定が難しい点があるような気がする)、門下三千と言われた随貞であるから、これも似たような理由で蓍策だけでは普及させにくかったという事も考えられる(なお、門下三千というのは孔子に倣った一つの慣用句であるから、実際に三千も居た訳ではない。或いは数百人規模の門人でも此の語を景気よく用いたようだ)。
ところで、現在中国では蓍の基原にキク科ノコギリソウを当てていて、これは西洋にも近縁種が見られるが、西洋人にとっての有難さは竹のほうが遥かに上らしい。
何年か前、庵主の植物仲間である大教大の岡崎准教授が渡英してあちらの植物園を歴訪した際、行く先々で学芸員が竹ばかり見せて自慢して来るのに閉口したという話をしていた。
何せ竹は西洋には自生がなく、東洋趣味の植物の代表的なものの一つだそうで、ただならぬ神秘的なムードが漂っているというのだが、見慣れている我々普通の日本人にはよく分からぬ感覚と言う他ない。
山崎闇斎が筮儀の解説に筮竹を用いた事例はあるものの、実際に蓍策が姿を消して筮竹にとって代わられるのは新井白蛾以降であるというが、どうもこれは学問上の理由ではなく、孰れかと言えば当時のマーケティングと絡めて論じるべきものであるらしい。
というのは、白蛾は“日本易学中興の祖”等とあがめられて我が国易学史の無視できない位地を占めているけれど、白蛾の名が上がったのは、その学識の深さや入神の占筮に依ったものではなかったようで、奈良場勝先生によれば、白蛾の易占書を手掛けた書肆による筮具の抱き合わせ商法がヒットとして爆発的な売れ行きをみせたことが大きいのだという。
今でもタロットなんかが附録としてくっ付いていて、本を買った其の日から占いが始められますゼ的なものが幾らでも書店に溢れているけれど、江戸時代にも既に此の商法が行われていたようだ。
してみると、筮竹の普及という現象も此の商法との関連で考えざるを得なくなって来る。
これには均一な品質の筮具を大量生産する必要が生じる訳だが、メドハギは採取できる季節が限られているし、所詮植物の茎だから太さにも撓み具合にも相当なバラツキがあるのは避けられない。
加えて、当時は今ほど雑草としてウジャウジャ生えている訳ではなかったから、これを採取してそこそこ均一な品質で市場に出すのは非常に難しいことであったと思われる。
そうなると年中採取出来て、加工によって幾らでも同じものを大量生産出来る竹に目が付けられるのも時間の問題であろう。
そもそも白蛾がメドハギより竹のほうが優れていると思っていた為に蓍策が消えて筮竹に取って代わられたという訳ではないのは、自身、大阪在住時代に庭で蓍の栽培を試みている程には正統立卦具に執着を示している事から明らかである。
しかし、散々筮竹を売り捌いておいて自分は蓍策を使いますというのでは読者を馬鹿にした話なので表向きのポーズとして筮竹を使っていたという事もあったかもしれない。
また、白蛾の師に当たる平澤随貞も同様に筮竹を使っていたようなフシがあるが(白蛾流と随貞流の諸々の関係はどちらがどちらに影響を与えたのか先後関係の特定が難しい点があるような気がする)、門下三千と言われた随貞であるから、これも似たような理由で蓍策だけでは普及させにくかったという事も考えられる(なお、門下三千というのは孔子に倣った一つの慣用句であるから、実際に三千も居た訳ではない。或いは数百人規模の門人でも此の語を景気よく用いたようだ)。
ところで、現在中国では蓍の基原にキク科ノコギリソウを当てていて、これは西洋にも近縁種が見られるが、西洋人にとっての有難さは竹のほうが遥かに上らしい。
何年か前、庵主の植物仲間である大教大の岡崎准教授が渡英してあちらの植物園を歴訪した際、行く先々で学芸員が竹ばかり見せて自慢して来るのに閉口したという話をしていた。
何せ竹は西洋には自生がなく、東洋趣味の植物の代表的なものの一つだそうで、ただならぬ神秘的なムードが漂っているというのだが、見慣れている我々普通の日本人にはよく分からぬ感覚と言う他ない。
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