熹平石経
- 2021/10/20
- 18:11
国家によって儒教経典の定本を規定しようとする事業は何も唐代の『五経正義』に始まった訳ではない。
最初の試みは、後漢末に洛陽の太学門前に建てられた所謂「熹平石経」である。
学派毎に用いているテキストがバラバラというのでは御上の側からして不都合であるのは何時の時代も同じである。
そこで熹平四年(175)、蔡邕等が当時行われていた儒教典籍間の文字の異同を正して定本を作ることの必要性を霊帝に奏上、大規模な校勘事業が始まり、文字は蔡邕自ら揮毫して之を彫らせ、光和六年(183)に洛陽の太学門前に立石された。
碑刻された典籍は『易』『書』『詩』『春秋経』『公羊伝』『儀礼』『論語』の七種で、碑石数は現在のところ四十八碑あったと推測されており、文字数は計二十余万字に及んだという(うち『易』の碑は八面四碑とされる)。
残念ながら建碑が後漢末という不運な時代になされた為、ほどなくして破壊され、三国魏の黄初元年(220)に修復されるも、その後の戦乱や度重なる移動により、唐初には殆どが失われてしまい、宋初に多少の残石が出土した他は、録文と拓本が僅かに伝わるのみとなっていた。
1922年に洛陽の太学遺址から大量の残石が出土して注目を集めたが、此の時の出土品には海外に流出したものも少なくなく、我が国にもかなりの数の刻石や拓本が入って来ている(ただし、太学遺址からの大量出土以降、偽物も相当に作られたらしく、素性の良くないものが相当世界に散らばっても居るようだ)。
熹平石経は経書の校勘においても非常に重要な史料であり、また書道研究の上でも重要視されているが、我々易学徒にとっては何より漢代の今文経の『周易』というのが如何なるものか興味を引かれるところであろう(現行の『周易』は費氏古文易の系統のテキスト)。
ところで、普通“石経”と謂えば後漢末の「熹平石経」を指すが、実際には其の後も魏の「正始石経」や唐の「開成石経」など断続的に作られ続けていて、清朝乾隆年間の「清石経」まで少なくとも七回の刻石事業を数え上げる事が出来る。
また、これは儒教典籍の官刻に限ったもので、仏教や道教関連の私的な建碑は相当数行われた形跡がある。
最初の試みは、後漢末に洛陽の太学門前に建てられた所謂「熹平石経」である。
学派毎に用いているテキストがバラバラというのでは御上の側からして不都合であるのは何時の時代も同じである。
そこで熹平四年(175)、蔡邕等が当時行われていた儒教典籍間の文字の異同を正して定本を作ることの必要性を霊帝に奏上、大規模な校勘事業が始まり、文字は蔡邕自ら揮毫して之を彫らせ、光和六年(183)に洛陽の太学門前に立石された。
碑刻された典籍は『易』『書』『詩』『春秋経』『公羊伝』『儀礼』『論語』の七種で、碑石数は現在のところ四十八碑あったと推測されており、文字数は計二十余万字に及んだという(うち『易』の碑は八面四碑とされる)。
残念ながら建碑が後漢末という不運な時代になされた為、ほどなくして破壊され、三国魏の黄初元年(220)に修復されるも、その後の戦乱や度重なる移動により、唐初には殆どが失われてしまい、宋初に多少の残石が出土した他は、録文と拓本が僅かに伝わるのみとなっていた。
1922年に洛陽の太学遺址から大量の残石が出土して注目を集めたが、此の時の出土品には海外に流出したものも少なくなく、我が国にもかなりの数の刻石や拓本が入って来ている(ただし、太学遺址からの大量出土以降、偽物も相当に作られたらしく、素性の良くないものが相当世界に散らばっても居るようだ)。
熹平石経は経書の校勘においても非常に重要な史料であり、また書道研究の上でも重要視されているが、我々易学徒にとっては何より漢代の今文経の『周易』というのが如何なるものか興味を引かれるところであろう(現行の『周易』は費氏古文易の系統のテキスト)。
ところで、普通“石経”と謂えば後漢末の「熹平石経」を指すが、実際には其の後も魏の「正始石経」や唐の「開成石経」など断続的に作られ続けていて、清朝乾隆年間の「清石経」まで少なくとも七回の刻石事業を数え上げる事が出来る。
また、これは儒教典籍の官刻に限ったもので、仏教や道教関連の私的な建碑は相当数行われた形跡がある。
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