尚聖館跡を訪ねて
- 2021/12/23
- 18:59
紀藤先生の今里時代はごく短く、大阪移住の翌年8月には当時大阪市の助役をしていた門人の好意により「大阪市都市計画仮設住宅」の監理者として恵美須町3-27へ転居されている。
この年から「紀藤元之介」の易名を用いられたが、「尚聖館」の看板を掲げるようになったのも此の頃からで、汎日本易学協会関西地方本部になった年でもあるから、昭和28年は先生にとって転機の年でもあったようだ。
木藤謙氏によると、当時の今宮戎周辺はまだ戦後の焼け跡が残っており、その中に10坪ほどの平屋掘立小屋の仮設住宅が3棟建てられ、間仕切りも畳もない板の間の部屋に、空襲で焼け出されて住むところのない家族が何組か雑居するという状態で、今の丁度災害で体育館に避難しているような光景だったということである(木藤家は幸い管理者の立場だった為、特別に間仕切って一間があてがわれたとのこと)。
終戦から8年も経っているのだが、いまだそんな光景が広がる場所だった訳だ。
木藤謙氏の回想によると、戎神社と南海線の高架の間の道路は当時まだ走っておらず、バラックのスラム街で、北側(難波寄り)、今の阪神高速の下はドブ川で、大阪球場(現なんばパークス)の横から道頓堀に流れ込んでいたという。
当時大阪市の所有であった尚聖館の在地は其の後今宮戎神社が買い上げたらしく、現在同社の宿泊施設になっている写真正面の建物のある辺りがかつて旧宅のあった場所に当たるそうだ。
この年から「紀藤元之介」の易名を用いられたが、「尚聖館」の看板を掲げるようになったのも此の頃からで、汎日本易学協会関西地方本部になった年でもあるから、昭和28年は先生にとって転機の年でもあったようだ。
木藤謙氏によると、当時の今宮戎周辺はまだ戦後の焼け跡が残っており、その中に10坪ほどの平屋掘立小屋の仮設住宅が3棟建てられ、間仕切りも畳もない板の間の部屋に、空襲で焼け出されて住むところのない家族が何組か雑居するという状態で、今の丁度災害で体育館に避難しているような光景だったということである(木藤家は幸い管理者の立場だった為、特別に間仕切って一間があてがわれたとのこと)。
終戦から8年も経っているのだが、いまだそんな光景が広がる場所だった訳だ。
木藤謙氏の回想によると、戎神社と南海線の高架の間の道路は当時まだ走っておらず、バラックのスラム街で、北側(難波寄り)、今の阪神高速の下はドブ川で、大阪球場(現なんばパークス)の横から道頓堀に流れ込んでいたという。
当時大阪市の所有であった尚聖館の在地は其の後今宮戎神社が買い上げたらしく、現在同社の宿泊施設になっている写真正面の建物のある辺りがかつて旧宅のあった場所に当たるそうだ。
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