阿部広之進のこと
- 2022/01/16
- 10:44
年初にネットオークションに出品されていた筮具類が如何なる研究者の手に帰したものかという点も気にかからぬでもないが、私が注意を引かれたのは実は出品者のほうであった。
他の出品物を拝見した限り、占い関係者ではなく、リサイクル業者的な出品者であるようにお見受けしたが、出品地が宮城県であることに興味を持った。
それは、ひょっとするとあの筮具は阿部広之進の旧蔵品ではないかと思ったからだ。
阿部広之進と聞いてピンと来る人は恐らく相当な人だけだろうが、明治期にそれまで写本として伝えられていた真勢流の易書を多く校勘出版した近代易における大恩人の一人である(加藤大岳氏の『易学病占』も阿部の出した『存々成務』に多くを拠っている)。
私は自身が在野であることもあって、大きな学恩を後世に施しながら歴史に埋もれたままになっている先学を顕彰することにこれまで心を砕いて来た。
その一環として取り組んだのが寺田貞次や木村敬二郎といった戦前における京阪掃苔界の先駆である。
阿部広之進については、以前真勢流医易についての論考を執筆した際、フト気にかかり出し、調査してみたのは昨春のことなのだが、国会図書館に架蔵される数冊の奥付を見ると「陸前登米町232番地」(現登米市登米)と記載されていて、宮城県在住だったことを知った。
中州は大阪の人であるし、阿部広之進の手がけた真勢流の易書は大阪の版元から出ていた為、てっきり浪速人であると思い込んでいたのだが、どうも東北人であるらしい。
そこで、宮城県立図書館にレファレンス依頼を出してみたところ、阿部について記載がある資料を複数教えて頂くことが出来た。
資料1 菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会, 1933p.34.「アベ・ヒロノシン【阿部広之進】」の項
「卜筮家。仙台の人,宮城農学校,仙台第二中学校教諭,後失明して卜筮を業とし,能く適中するを以て称せらる,大正初年歿す」
資料2 宮城県農業高等学校編『宮農百年史』宮城県農業高等学校, 1969「教職員名簿」の項p.19.「122. 阿部広之進 明治40年2月〜明治41年6月」
資料3 宮城県仙台第二高等学校[編]『仙台二中二高百年史』宮城県仙台第二高等学校, 2000.「【五】現職員・旧職員」の項のうち,「旧職員」の部p.329.「氏名:阿部広之進 旧職名:教諭 在任期間:明41・6・13〜明43・3・31」
資料4 井上円了編『南船北馬集. 第14編』(国民道徳普及会,1918)
「宮城県一部巡講日誌」のうち,大正6年7月5日登米町来訪時の記事p.50
「哲学館出身阿部広之進氏は久しく中等教育に従事せられしが,不幸にして失明の人となり,此地に帰臥す,(以下略)」
資料5 東洋大学編『東洋大学一覧 昭和9年度』(東洋大学,1935)
「三一,称号受得者」—「東洋大学得業」のうち,「明治三十八年三月二十五日授与」の項に「阿部広之進」の氏名あり。
以上より、宮城県仙台に生まれ、東洋大学に学んだ後、教育者として従事するも失明、のち易者に転向し、大正の初めに没したことが分った。
ところで、国会図書館架蔵本の真勢易書を見ると、校正者として阿部広之進の名が記載されるものと、阿部亀代治(見龍)となっているものとがある。
ともに所在地が同じであるので、異名同人かと思ったが、明治42年の『感通方諸』阿部亀代治校正の序文に
とあるところよりすれば、阿部広之進と阿部亀代治は父子二代共同で出版に従事したように思われるのである。
ただし、いずれが父でいずれが子かは明らかでない。
出版年を見ると、
『易占揆方』亀代治、明治28年
『復古易精義入神伝』亀代治、明治28年
『象変辞占』広之進、明治28年
『真勢家三秘伝』広之進、明治30年
『周易講義』広之進、明治31年
『受命響音秘解』亀代治、明治35年
『感通方諸』亀代治、明治42年
『居諸玉里』亀代治、明治42年
となっていて、広之進校正のものは明治30年前後に集中していることが分る(普通父子共同で事業に当たったなら、いっそ連名でも良さそうなものだが、実際の校正者別に厳密に分けたのであろう)。
或いは失明と関係したことであるのかもしれないが、いずれにせよ阿部父子の出版事業は大正年間に入ると見られなくなるようだ。
他の出品物を拝見した限り、占い関係者ではなく、リサイクル業者的な出品者であるようにお見受けしたが、出品地が宮城県であることに興味を持った。
それは、ひょっとするとあの筮具は阿部広之進の旧蔵品ではないかと思ったからだ。
阿部広之進と聞いてピンと来る人は恐らく相当な人だけだろうが、明治期にそれまで写本として伝えられていた真勢流の易書を多く校勘出版した近代易における大恩人の一人である(加藤大岳氏の『易学病占』も阿部の出した『存々成務』に多くを拠っている)。
私は自身が在野であることもあって、大きな学恩を後世に施しながら歴史に埋もれたままになっている先学を顕彰することにこれまで心を砕いて来た。
その一環として取り組んだのが寺田貞次や木村敬二郎といった戦前における京阪掃苔界の先駆である。
阿部広之進については、以前真勢流医易についての論考を執筆した際、フト気にかかり出し、調査してみたのは昨春のことなのだが、国会図書館に架蔵される数冊の奥付を見ると「陸前登米町232番地」(現登米市登米)と記載されていて、宮城県在住だったことを知った。
中州は大阪の人であるし、阿部広之進の手がけた真勢流の易書は大阪の版元から出ていた為、てっきり浪速人であると思い込んでいたのだが、どうも東北人であるらしい。
そこで、宮城県立図書館にレファレンス依頼を出してみたところ、阿部について記載がある資料を複数教えて頂くことが出来た。
資料1 菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会, 1933p.34.「アベ・ヒロノシン【阿部広之進】」の項
「卜筮家。仙台の人,宮城農学校,仙台第二中学校教諭,後失明して卜筮を業とし,能く適中するを以て称せらる,大正初年歿す」
資料2 宮城県農業高等学校編『宮農百年史』宮城県農業高等学校, 1969「教職員名簿」の項p.19.「122. 阿部広之進 明治40年2月〜明治41年6月」
資料3 宮城県仙台第二高等学校[編]『仙台二中二高百年史』宮城県仙台第二高等学校, 2000.「【五】現職員・旧職員」の項のうち,「旧職員」の部p.329.「氏名:阿部広之進 旧職名:教諭 在任期間:明41・6・13〜明43・3・31」
資料4 井上円了編『南船北馬集. 第14編』(国民道徳普及会,1918)
「宮城県一部巡講日誌」のうち,大正6年7月5日登米町来訪時の記事p.50
「哲学館出身阿部広之進氏は久しく中等教育に従事せられしが,不幸にして失明の人となり,此地に帰臥す,(以下略)」
資料5 東洋大学編『東洋大学一覧 昭和9年度』(東洋大学,1935)
「三一,称号受得者」—「東洋大学得業」のうち,「明治三十八年三月二十五日授与」の項に「阿部広之進」の氏名あり。
以上より、宮城県仙台に生まれ、東洋大学に学んだ後、教育者として従事するも失明、のち易者に転向し、大正の初めに没したことが分った。
ところで、国会図書館架蔵本の真勢易書を見ると、校正者として阿部広之進の名が記載されるものと、阿部亀代治(見龍)となっているものとがある。
ともに所在地が同じであるので、異名同人かと思ったが、明治42年の『感通方諸』阿部亀代治校正の序文に
余等父子、明治二十八年以来真勢氏ノ遺稿ヲ刪補シテ出版云々
とあるところよりすれば、阿部広之進と阿部亀代治は父子二代共同で出版に従事したように思われるのである。
ただし、いずれが父でいずれが子かは明らかでない。
出版年を見ると、
『易占揆方』亀代治、明治28年
『復古易精義入神伝』亀代治、明治28年
『象変辞占』広之進、明治28年
『真勢家三秘伝』広之進、明治30年
『周易講義』広之進、明治31年
『受命響音秘解』亀代治、明治35年
『感通方諸』亀代治、明治42年
『居諸玉里』亀代治、明治42年
となっていて、広之進校正のものは明治30年前後に集中していることが分る(普通父子共同で事業に当たったなら、いっそ連名でも良さそうなものだが、実際の校正者別に厳密に分けたのであろう)。
或いは失明と関係したことであるのかもしれないが、いずれにせよ阿部父子の出版事業は大正年間に入ると見られなくなるようだ。
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